デズデモーナ・クロアチア版
(岸田理生氏の『デズデモーナ』が創作された2000年〜2001年とほぼ同時期、
1995年〜1999年にテラ版『デズデモーナ』は3ケ国で国際共同製作作品として創造されました。
以下は、1999年のクロアチアとの国際共同作品の記録になります)
(写真はリハーサル、撮影宮内勝)
記録
『デズデモーナ』
製作・主催 イストリア国立劇場、テラ・アーツ・ファクトリー
構成・演出 林 英樹
1999年8月、クロアチア
イストリア国立劇場上演
プーラを象徴する古代ローマの円形闘技場、
かつてこの都市はアドリア海に突き出すイストリア半島の
ローマ帝国属領を支配する首都だった。
その後、イタリア(ベネチア)に700年属した後、
第二次大戦後ユーゴスラビアに併合され、
現在はクロアチアに属するが、独立心の強い、
イタリア気質、イタリア系民が主流となる都市。
本企画はクロアチアの国立劇場(イストリア国立劇場,プーラ市)による
フェスティバル演目の一つとして、
同劇場とテラ・アーツ・ファクトリー(TERRA ARTS FACTORY)
の共同製作でスタートした。
テラ・アーツ・ファクトリーは国際交流基金の支援を得て、
国際共同事業として一年前より制作準備を開始。
ところが、
90年代の旧ユーゴ諸国の内戦の延長上に
今度は新ユーゴのコソボで紛争に火がついた。
現地、プーラ市はイタリアのNATO空軍基地と
新ユーゴを結ぶ直線上に位置し、
連日、新ユーゴスラビア空爆のNATO軍爆撃機が
頭上を飛び、民間航空機のプーラ離発着が不可能となってしまった。
観光客が来ない。。。。
フェスティバルは観光地でもあるイストリア半島プーラ市
の観光客が落とすお金で成り立つ。
(イタリアに近い都市、700年間イタリア領。
古代ローマ時代の巨大コロセニアムを有し、
アドリア海に面したこの都市はクロアチアの観光資源でもある)
国立劇場は、空爆とともにフェスティバルの中止を決めた。
が、それでいいのか?
林は現地メンバーと綿密な連絡を取り合い、
腰砕けになって機能しなくなった
旧社会主義国の官僚的な旧弊を残す国立劇場を叱咤し、
間に入っていてすっかり逃げ腰になっている
フェスティバルディレクターのダルコ・ルキッチを動かし、
そして何より、
この状況の中でこそ本企画を実現すべきだとする
現地メンバーのリーダーで演出助手に指名した
アレクサンダー・バンチッチに
日本からメールで制作進行の指示を送りながら、
着実に企画実現に向けて準備を進めていった。
そしてついに国立劇場も重い腰を上げ、
「やろう」ということになった。
皮肉なことにその6月に、コソボ紛争は収拾した。
林は三人の日本人スタッフ・キャストメンバーとともに
7月に現地に入り、リハーサルを重ね、
8月に無事上演を実施。
特に若い観客から非常に大きな反響を得た。
海外での制作中止から、逆転しての企画実現。
演出としてだけでなく、
制作プロデュースとしての「腕力」をためされた事業であった。
演出助手だけでなく、出演、さらに現地制作チーフ、広報チーフとして
フル活躍したアレクサンダー・バンチッチとの
企画実現のための「切羽詰った大逆転作戦」のやりとりメールを
英文ではあるが、一部翻訳を入れて、公開する(「制作進行というドラマ」欄)。
これが本企画で一番ドラマチックであったかもしれない。
俳優(クロアチア)のリポート
演出シノプシス
キャスト・スタッフ並びに解説
制作進行というドラマ