舞台批評
『最後の炎』 2012.2.23〜6 d倉庫
長谷川明(ライター)


存在、個々のずれ。自意識の果。偶然に支配された庶民個々人の存在証明、普遍的な形への拘りとシステムの崩
壊。その流れが見えない者達の悪あがき。これらが、点描法よろしく鏤められ、その間を想像力で繋げ、と迫ってくる舞
台である。形式的には、ギリシャ劇のコロスに摸された、民衆群だが、ここにも仕掛けがある。合唱は拒否されている
のだ。唯、其々が、自分の個々の情況をバラバラに言い張ることが要求されているだけなのである。結果、それはポリ
フォニックな形をとって観客に伝わる訳だが、その効果は、異化である。無論、強く異化効果を主張したブレヒトのそれ
ではない。反対に受け身の者の持つ幽けき異化なのである。


それらは例えばこんな具合だ。元兵士は戦争での体験をひた隠しにする。元音楽教師は、調律の狂ったピアノを弾か
ない。その夫は、アルツハイマーの母を処分してから森に失踪する。交通事故の原因を作ったコカイン中毒者とその友
は、犬に養われる。爆弾犯の強迫観念に取り憑かれた女性警官は、自分が犯人になった幻覚に苛まれる。アルツハイ
マーの母は、孫の死を何度聞いても、直ぐ忘れてしまうので、1日に何度も孫の死という事実にショックを受けざるを得
ない。漸く、その死を受け入れるのは、殺される直前である。また、元美術教師は、乳癌で両の乳房を切除しており、現
在はシリコン製の人工乳房を付けているが、登場する男たちの幾人かとは肉体関係を持ち、現在はクリーニング屋で
働いているといった状態だ。


これらの登場人物たちが、恋愛感情、夫婦愛、親子愛、友愛、隣人愛を通して互いに関係を結ぶが、その在り様は、
大変にいびつであり、それ故苦しい。このことは、恐らく重大な問題を示唆している。即ち西洋近代のイデオロギー破綻
である。自意識の限界と益々、複雑化する諸状況を分析、再統合する知性に欠けた多くの民衆の精神的苦痛を通し
て、作家は、アイロニカルに抗議して見せるのだ。自分達も情況次第では描かれた登場人物と同じ反応を示すであろう
ことに想像の及ばない個々人ばかりである事実を。"知らんぷり"に気付かせる為に。その為の異化効果利用である。


従って作家は、至る所にその異化効果を仕掛けている。夫婦を中心にしても良かろう。未亡人中心でも良かろう。或い
は、呆けの入った母親でも良かろう。また、ここで扱われたように兵士でも良いのだ。恐らく、作者は、誰かを中心に据
えることに対してノンの姿勢を保っている。そしてこれこそが、作家が世界に対して与えた痛烈なアイロニーであった。


只、今回、テラ・ファクトリーの演出では、中心を元兵士に置いている。それは、演出家が、戦争こそ、これら諸問題を
惹起する根源的問題だと捉えたからに他なるまい。中心など存在しないと考えることが、原作者の痛烈なアイロニーで
あるとするならば、その場を演劇的に効果あるものと設定し得る、最も合理的な演劇空間は、戦争の影響を受けた弱
者の存在する「場」であろう。その意味で、彼が、子供が引き殺された、当にその場所に居たこと。それが、彼の戦争中
の体験を惹起させるのは必然である。元兵士は、苦悩の過程で自らを傷つけ、閉じ籠り、焼身自殺を遂げる。通常の
理解を拒否するのだ。従って、兵士の肉が焼け爛れる時の照明には赤を灯さない。そのような灯し方をしないことによ
って、この演出では、日本の平和の毒に当たった人々に、理解されることを拒んだ兵士の覚醒を迫ろうとしているかの
ようである。それが、演出の狙った異化効果であった。


そして、それは、敗戦後、少なくとも直接、戦闘に携わらずに来た我が国軍の法的縛りを堅持して来た我々、日本及び
日本人の選択を、その覚悟を問う試みでもあるだろう。




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