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棄民の国となった日本
「チェルノブイリを例に取れば、原発から半径300kmの地域では、事故の約5年後から子供の甲状
腺障害が急増しました。そして10年後にはおよそ10人に一人の割合で病気に罹ってしまった。さら
に、そのうちの1割以上がガンを発症しています。割合で言えば1000人のうち、15人くらいの子供
が甲状腺ガンになってしまったのです」(現代ビジネス →→)
3月15日に東京でチェルノブイリの時の何百倍もの放射性物質が検出されたことが次第に明らか
になってきた。この日、外にいた人はかなりの内部被ばくをしている。特に心配なのは子供たち
だ。
被害を小さく見せようとするあまり、データさえ公表しない政府。その結果は確実に数年後に現れ
るだろう。しかし、捨てられたことを認識している人間は福島に比べ、東京では圧倒的に少ない。
私は反原発派ではない。それでは思考停止になるだけだと20代の時に考えた。学生時代は反原
発グループの活動にも参加したが、今は原発事故を契機に、演劇の場でより深く思考を続ける作
業をしたいと思っている。
ただ、結果として原発の隠された闇の部分(利権構造、欲望の構造、国家の虚構の構造)が次々
に顕在化し、この国の現実、歪みの根本が見えて来た。そこをもっと徹底して追求し、自分の表現
と繋げていきたい。
表現に向かう態度として二つがある。一つは現実逃避、もう一つは現実と向き合う態度。演劇とい
う表現は、娯楽に走る時には前者に傾く。その手段としてファンタジー、夢物語を使う場合が多い。
後者はリアリズムである。リアリズムは日常再現(写実)形式だけがイメージされるが、決して表現
形式を言うのではなく、現実に対する態度の問題であ ると私は考えている。だから、テラのように
身体性を重視する態度、つまり表現の主体で ある俳優とテクストの関係を重視する基本姿勢の上
に表現行為としての演技を構築する方法論が取る傾向の結果として叙事的(表現する世界に同化
するのでなく、もう一つその構造の外に出て、客観的・ニュートラルな立場に観客ともども立ち、題
材やテーマに対し「メタ」構造を取る方法)表現形式を意図するからと言って、リアリズムではない、
という論理は成り立たない。リアリズム=写実、日常再現ではない。同様に象徴的表現、 寓話的
表現、叙事的表現=ファンタジーでもない。
現実をたとえつらくとも、目をそむけたくとも逃げずに、より深くその背景や前提にある問題にまで
思考を突き進め、問題(たとえば悲劇、抑圧、差別、いじめ、排除、対立、紛争、搾取、罪)を発生
させる構造に目を向ける。それは演技という表現への態度とも一体である。自分を飾り付け、ある
いはごまかす「飾りものの演技(着ぐるみの演技)、キャ ラ芝居やエンタメ系の芝居の演技の大
半、小劇場系の特に若い世代の芝居の大半はこういった類い、美しいと感じる演技者に出会うこと
は殆どない。小劇場が運動として日本で発生した1960年代後半〜1970年代は別の場として小劇
場は存在していた。現実と向き合う場、より観客と直接的に現実への侵犯を実現する場。しかし、
1980年代以降現在に至るまで、すっかり「クリーン化」(無毒化)傾向が続いている。現実逃避の
場、一時の気休め、現実離れの場として虚構が利用される。誰しも日常は楽しくない。だから演
劇、みたいな。しかし、非日常、あるいは虚構の場が無意味だというのではない。それが現実逃避
の精神で使われた時に無意味になる、無毒化されるのである。そこら辺は最近、堀り出して来た
資料に詳しい。小劇場のビビッドな批評性がバブルに向かう社会環境に次第に飲み込まれて行く
過渡期に「ノー!」を突き付けたが・・・・「現<場>」誌→→→。
菅総理後、大連立へ傾く民主党。その結果、政党政治が機能しなくなる。太平洋戦争前と類似構
造(「大丈夫、日本は安全=勝利する」と政府、新聞一体となり国民を戦争に突入させて行った)を
呈する非常時の現在、政府、政治はすでに死に体である。前回は機能しない政府に代わって軍部
が独走した。今回は「民」が主体となって変えて行く。本気で変えていく。そういう革命をめざせ。中
東だってネット革命で長期に渡って続いた独裁政権を倒したじゃないか。時間が掛かっても、思い
立った者から、自分の場で、生涯かけるつもりで地道な革命の一歩を、今回の事故を契機に開始
するべき時。お上=官、 役所が主、民が従の従順な国民から、真に共同体の主体となる「民」が
主の国めざす。 そのために表現をする者は、表現行為の根拠、モチベーションを再認識、再構築
する。そういう表現しか意味はない。むろん、娯楽は、気休めは人間、必要。しかし、いま日本に必
要なのは気休めの表現ではない。少なくとも表現行為の場では娯楽は場違い。生きるか死ぬか、
だ。命懸けの芸術行為、だ。少なくとも私は。
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来年2月の本公演『最後の炎』に向けてぼちぼち始動。
まずはテラ・アーツ・ファクトリー、姉妹組織のシアターファクトリー以外の外部出演者を受け入れる
か、受け入れるとするならどう受け入れるか、どういう人間(演技者)を対象とするか、受け入れる
側の状態がどうあれば受け入れられるか、など。集団の核メンバーであった女子陣がアラサーを
迎え、動ける人間がわずかになった。この体力半減以下になったテラ・アーツ・ファクトリーだが、
一人一人はむしろ技量を高めている。高めているが、やはり外部からの出演者を受け入れるには
過少だ。外部出演者のタイプによっては、受け皿となる集団の人間に負担が過重に働き、ストレス
が倍加する。結局は中の人間がつぶれる。よくあるパターン、それをどう回避するか。そのれを考
えたチーム作りの必要がある。
まずは、稽古体制、上演に向けた集団体制、上演チームのイメージをめぐって今回の核となるテラ
の井口、上田、滝と4人で話し合い。続いて、作品へのアプローチなどをめぐって雑談的に会話す
る。8月のテラ実験公演『アンチゴネー』で、こちらの方はすっ かり中断していたから、まずは勘を
取り戻す作業から。
何を柱に作って行くのか?仕掛け、か?いやいや、これだけ大量の言葉、言葉、言葉。 まずは人
間が何ごとかを「しゃべる」、それが何を意味するか。そして沈黙。そこらへんから行くのだろ う、
テラ式としては。その上で、個々がそこにいる、立つ、そのためには集団・・・共同体 の最小単位
の一つとして、そして最も強固なものとしての芸術集団の自立的な居方、を探る。テラが追及してき
たものだ。
芸術集団が集団として、共同体を凝縮する形でそこにある。そのために演劇は有効な 手段。演劇
の「しゃべる行為」が、人間が「しゃべる行為」をする不思議な生き物であるという事と直結する
何かを表す、あるいはつなげる。欠如したものがあるから、人はそれを埋めるためにしゃべる。し
かし、しゃべればしゃべるほど空洞は大きく拡がって行く。「空虚と空白」、その「欠如と欠落」を埋
めるために、何者かに出会おうとする。
大事なものを喪った者たちが集まり、やがてそこで出会い直し、生き直し・・・生の再生が始まる、
一種の儀式にも似た行為としての「しゃべり続ける」、そこに沈黙を持つ者がある。そんなこんな
まだ思考はぐるぐる廻りながら、「発語(発話より、より語の後ろに潜む音に近付く意味で発
語)」行為と人間が生きる根源のエネルギー、そこがつながって行く、そんな舞台を考えている。
つまりは何がテーマ、などではない。それ自体が生の行為としての演技、それを表すために作品を
借りる。つまり作品を見せるのではなく、存在 をより明確に輪郭づける行為としての演劇をやる。
そのためのテクストであり、作品である。本末転倒ではなく、本末転倒の近代芸術の在り方そのも
のからより始源の生の行為に向かうための演劇行為、なんてことか。そんな戯言の中身を迷わ
ず徹底してみたい。
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11月に入って、ドイツのデーアー・ローアー作『最後の炎』を使いながら、アタリ(アプローチの方法)
をつけている。出演候補者に稽古場に足を運んでもらったりしながら、で。
戯曲の再現(リプレゼンテーション)が目的ではない。
テクストを材料にして、個人の側の物語を「私たちの物語/歴史」にどう変換するか、を目的にす
る。ここで言う「私たち」とは、当然戯曲の向こうの登場人物や彼らが所属する社会ではなく、こちら
の側であり、上演者と観客、そしてその外に拡がる日本人のことである。戯曲の中のドイツの人の
話はその参照材料となる。これがテクストのマテリアル化であり、その試みと試みの結果としての
上演をテラ・アーツ・ファクトリーで来年2月に予定している。
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シアターファクトリーのワークショップ
酒井さん、若林さん、加藤さんのアダルトチーム(今回はシアターファクトリーから加藤さんと江口君
が出演予定)。
『最後の炎』の最初の語りの部分を「語り」の手法を使ってやってみる。
50代、60代になってわかること、見えてくることがある。人生の悲哀、諦観、大事な人間(夫や息
子、妻、親など)を失った時の絶望感。
このテクストの「こころ」、芯(テーマ)は喪失である。喪失からの再起、最後の炎でなく、最初の炎を
祈念しつつしかし絶望的な状況を生きる他ない人びとの苦悩が描かれている。
自分の意志と関係なく、目前で起きた偶発的な事故に巻き込まれた者の心の「ショック」の大きさ。
事故の唯一の目撃者が主人公である。彼の「こころ」の中で起きている事が見えてこないと何の話
かわからない。こころの中で起きている「こと」は見えない。見えない「こと」とつながる絆がテクスト
の「ことば」という構造に立つ戯曲である。
「もの」と「こと」がある。出来ごとを、事象を舞台上に行動で再現する。それが再現型の演劇の特
徴。一方、ここで起きてないことを報告するのはギリシア悲劇の手法。それを受けてここにいる人
たちが「対話」する。『最後の炎』で起きたことは過去の交通事故、そしてかなりぼんやりと現れてく
るのは「遠い戦場」の出来ごと。この二つが主人公を通じて結びつく。痛いほど激しく彼の精神を苦
しめる。自傷行為へ走らせ、やがて他者への暴力に向かわせる。これを「もの」としてではなく、見
えないものに触れるようなアプローチで演出したい。その方法を今は思考と感覚をフル回転して探
っている。が、かなりアプローチの方法は固まってきている。
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テラ・アーツ・ファクトリー制作、『最後の炎』の稽古を終える。
今回はいいメンバー、役者が揃ったなあ、と思う。舞台以前のモチベーションが違っていたり、何か
しら表現イデオロギー(ある一つの考えにこり固まっている状態)なものに「しがみついている」 感じ
だとなかなか難しいものがある。それほど多くはない出演者でチームを作るわけだから、ま ずはチ
ームとして一丸になれるかなれないか、がポイントだ。そこが何だか、今回は外部からのメンバー
が半数以上なのに、行けそうな感じがする。
とは言ってもテラ独自の、舞台の足場の部分、ベーシックな身体性、身体技術は一日にして成ら
ず。熟成して、自分なりに自由に活かせるまでに5年くらい掛かる。ので、今まで集団メンバー主体
でやっていたようには行かない。が、それでもテラの持ち味(ファリファリ)も活かしつつ、かつその
上にテクストを載せる感じに何とか持って行けそうなプランがまとまってきた。
12月下旬以降、殆ど他のことが手につかない状態が続いた。悩みに悩み抜いた。とにかく一筋 縄
で行かない台本。何故、そうなるのか、いきなり何のプロセスもなく、初対面の場面が、次には 親
密になっている。その間に二人に何があったか、何も書いてない。そんな台本だから、こちらが 想
像してこれで行こう、と埋めて行かなけらばならない。それよりハードは役の指定なしのテクスト
(語り、ナレーションにあたるものか)が半分を占める。普通のお芝居のテンポでこの分量をやる と
3時間は超える。ナレーション、語りが延々と続いたら、それこそ観客は寝てしまう。これを2時 間
以内に収めるつもり。テンポの必要な部分はアップテンポ、しかし、じっくり静かに対話を聴かせた
い場面は間を大事に。
テクストの再構成は昨年、終えたが、先週からは目一杯、舞台上の構成(空間配置、場面・・・34
場ある・・・のつながり方など)を考え、脳内は飽和状態。ここまで頭をフルに使わせるテクストも滅
多にないのではないか。とは言っても難易度はすこぶる高いが、その世界観の奥の深さ、そこ が
何とも魅力。それをわかったふりをしないで、胸を借りるつもりで真正面からぶつかりたい。そうい
う対面勝負を仕掛けている。
舞台で心底やりたい戯曲、それでいてテラスタイルに合った戯曲が見つからずの二十年、ようやく
出会ったホン。テラとしては初めて生きている作家をやる(笑)。
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わたしたちはいかにして「他者の痛み」を分かち合い、
理解し合えることが出来るか
『最後の炎』稽古。
34場構成の戯曲、半分が「地の文」、戯曲が主体とする会話文は半分くらい。描写が延々と続き、
その中に「間接話法」としての発話者の引用が入る。直接話法(「あいたたた」と太郎は言っ た)と
間接話法(彼は痛いと言った)、間接話法では伝達者(リポーター)の介入がある。彼らから 見た
太郎であり、痛みである。解釈や好みも入り、当事者だけでなく伝達者自身も、同時にどういう者な
のかが浮かび上がってくる。ある災難、『最後の炎』では、交通事故で突然、愛する我が子を失っ
若いた母親、偶発的な事故を目の前で目撃してしまった戦場からの帰還兵。彼ら自身の物語だ
が、同時にそれを伝え、物語る者が何者かを問われることになる。ここで物語る者は演技者、わた
したち、となる。当事者になる(再現、あるいは再現したように見せる)のが、いわゆる 「役になる」
型の演劇の一般的、あるいは従来の基本的な考え方だが、ここでは再現したように 「見せる」行
為の根拠や、「見せる」理由が同時に問われてくる。そんなことを念頭に演出プランを立てて臨んで
いるが、さて、ウエルメイド劇ならお得意、うまく観客を泣き、笑い、騙す手法はお手のものだが(す
ぐにプランも演出法も浮かぶ、基礎中の基礎だし)、そこから一歩踏み込み、少し観客にも自分た
ちにも「誠実」たらんとすると、「途端に塗炭の苦しみ」、トタン屋根の上で焼かれ る思い(笑)。
一週間、ラストの案を思案して思考の渦の底の底にまで沈んでもがいていた。その間、悪夢を何
度も見てうなされてきた。眠れない夜も続き、他の仕事も手につかない状態、だったが昨夜、生涯
の芸事同志、今回の「主演」役、滝と稽古後食事をし、一緒に案を出し合い意見一致。ほぼ、この
線ですっきり終わらせるプランが固まり、今朝、久々に外も心も「青空」、少し、肩からこわばりが剥
がれおちる心境とあいなった。青空がうれしい、冬の一日、今週末は稽古。ここで大枠ががしっと
決まる、はず。今回はテクスト(戯曲)は一流、だからと言って舞台は二流では終わらせない。この
テクストで、こういう舞台(意外だが、言われてみるとまさにこれしかない、といった)、ちょっと他で
は思いつかない、そんな舞台になる。役者も揃っているし、質の高い舞台を客に渡せる。もう、とう
ぶん、これは出来ないかもなあ・・・・。
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『最後の炎』
通し稽古をしながら、少しずつ修正。
今日は、落合さんがさっそく曲を持参、合わせてみる。
現実の中に「生」の実感を失い、道や方向を見失いもがき苦しむ登場人物たち。中に入り込むとど
んどん巻き込まれ、ヒートアップする戯曲。それを抑制をかけ、「我慢に我慢」を重さね、ラストの
「感動」をじわっとした深い感動に変えたい。演出意図をよく理解し、同時に詩としても一流の原文
テクストの行間や、本をきちんと読みこんだなあと思わせる楽曲は、さすが文学部出身の作曲家だ
けある。戯曲が深く読みこめている、うれしい。
抒情に流れればいくらでも抒情的になる原作を、硬質な感じでスタイリッシュな演出に仕立てた。
音楽が加わりよりイメージが拡がるのを感じる。テラ初参加の深沢君、さすが自ら劇団を主宰し作
家もやるだけあって、セリフの文言を確実に捉えた発話、声もいい。パトカーで「犯人」を追跡中に
子供を跳ね飛ばし自責の念に押しつぶされて行く女性警官役の鬼頭さんも魅力全開、ステキな女
優さんだ。そして今回、一回り大きくなったと感じさせるテラの井口。子を失った母、という 未体験
の役をこみあげる感情をこれでもかと抑制し、抑えに抑え、我慢に我慢を重ね、最後に・・・・「炎」
の前に佇む姿が美しい。この役は女優のとって鬼門であり、登竜門、のような感じもする。更に、戦
場帰還兵で事故を目撃した男役の滝、スキルを一切かなぐり捨て、ただそこに立ち、ささやき、つ
ぶやき、そしてただそこに佇む。貫禄の演技となった。長い社会生活体験(舞台を20年以上離れ、
「社会人」をしていた)が逆に演技の土台を支え、下手なベテラン俳優の「お芝居っぽい」演技など
相手にならないくらいのリアリティー感。まさに「リアル」。これがわたしたちのリアル。「リアル」は形
式の問題ではない、内容の問題だ。
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テラ『最後の炎』稽古
幾つかの場面を抜き稽古。
犯人追跡中に子供をはねた女性警官がどういう気持ちか、なかなか難しい。当人じゃないし。役に
つく鬼頭さん、それでも奮闘。利賀で最優秀賞を取っただけあって演技力も魅力もある。が、それ
でもこの女性警官、なかなかどこにもいる感じじゃない。正義感、責任感、誰にも負けない。それが
マリファナ、そして幻覚世界に入って行く。他人事として みれば、極めて面白いが、当人の立場に
立つとこころの底は本人も全く手のつけられな いぐちゃぐちゃ状態。そのこころを「再現」する、の
はやはり当人じゃないし、こちらが作って行かなければならない。生身の、一個の、かけがえのな
い個人、類型ではない人間(のこころ)を形作る作業だが、これを理屈だけでやってもどうにもちぐ
はぐ。かといって認識がされてなければ、フィーリングだけでやってもリアリティは生まれない。
写実がリアルなわけではない。とくに口語体でなく、会話もまったく会話になってない(作家が下手く
そでそうなのではなく、確信犯的に非口語体を使用している)、そんなテクストと真正面から向き合
いつつ、非写実的に非写実的な演技でリアリティを出す。こういう試みをしている。これは「再現し
たように見せる」芝居ではなく、「再現」をめざしているから だ。そしてこの「再現」は日常の再現で
はない。日常の中で薄らぎ曖昧化しているこころの形を、動きを「再現」する、なのだ。
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寒さが少し和らいでくる。
あと公演まで二週間を切る。もうまっしぐら、とにかく公演に向けて集中、集中。
『最後の炎』稽古
幾つかの場面を抜き稽古。
より深く、テクストを探るように心がける。
後半場面で語りが主導権を握る。語りの力によって人物が動かされる、あるいは一体で動く感じの
流れを作ろうと試行錯誤。だが、語りの力がパワーアップしつつあるのも感じる。私たちが私たち
へ語り伝える「物語」、そんな感じになれば。
集中して稽古した場面は、子を失った後の夫婦の会話場面。短い断片でしかないが、そこに夫婦
の間のことが表象される。
我が子を事故で失い食事も喉を通らず、「スカートがずり落ちるほど」やせこけてしまっズザンネ
(妻)。何とか、立ち直らせようとするルートヴィヒ(夫)の言葉が返って気持ちを逆なでる。にもかか
わらず、認知症になって介護を続ける夫の母は、幾度となく「孫はどこ?」と口ずさみ、事態を理解
せず、同じことを毎日毎時間、口にし、ズザンネの記憶を、時間を事故の瞬間に止めてしまう。そ
んな状態にある母を井口香が苦闘しながらも抑制を効かせ、感情をコントロールしながら演じる。
が、苦しんだ分、難しい役である分、演技としてはワンステップ、違う位相に立ちつつある。19の時
からもうじき10年の付き合い、一緒に歩んできて、今回は「大役」と出会い、大きな成長をしてい
る。
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公演まで10日をあますところとなり稽古も、いよいよ大詰め、最後の踏ん張りどころ。
出演者のKさんが最初、言っていたように「面白いけど、やるのたいへんそうだな。どうやってやる
のか、見当がつかない」の通り、とにかく演出プランを立てるのにものすごい時間とエネルギーを費
やした。形になってしまえば、なあーんだ、かもしれないが、原作と舞台を比較するとかなり「ふうう
む」となるんじゃないかな。
テクストは非口語体と言えよう。これは一種の詩だ、と感じさせるもある。34の断片が積み重ねら
れたテクストは、映画のモンタージュを彷彿させる。そして半分近くが登場人物の指定なしの「その
まま文」、いわゆる「地の文」。その中に直接話法が埋め込まれている。これは、一体誰がしゃべっ
てる言葉だ、と特定するのも大変。すぐわかるのもあるが、中にはどう考えてもわからないのもあ
る。でも、何とか整理がつく。一部カットはあるものの、原文の書体はまったくいじらないことにし
た。
19世紀(後期)リアリズムで「舞台が現実」、そこに真実がある、というテーマが現れ、魔法のIF、で
自分の体験と重ね合わせる云々の演技法が取りざたされ、今も取りざたされ る。
が、私は日本の伝統手法、人形浄瑠璃の影響が初期の頃、大きかったせいか、「語り」が語りの
中で当事者(の心象)にも近づき、それを声、言葉として表象する、という発想が根本にあるから、
「現実の再現」ではなく、テクストで創造され、創作され、想像された、つまりセリフで書かれた台本
上の人物の「心象を(自分たちが受け止めた範囲で)再現」というアプローチになる。虚の中の実、
「虚実皮膜」でござる。あくまで「出来事」の当事者、本人としてではなく、語り手、伝達者、あるいは
観客代表として、つまり演技者としてそこに立ち、登場人物(役)=当事者の心象に近付いたり、離
れて客観的に描写したり、コメントしたり、あれこれ。そういう関係構造を活かしたい。活かせる本
を見つけた。そう思っている、それが『最後の炎』なり。
子供を事故で失った後の夫婦、家庭の中。これはすごく身に染みてわかる場面。が、普通はそう
は行かないだろう。私が身に染みるわけは、ケースは多少、違うが同様の体験をしているからだ
(このことは友人にも一切、語らなかったことだが、ようやく一区切りする気持ちになれた。まあ、
「昔話」の類で居直れる気になったので公言解禁にする)。これまでのテラは20代女子集団の集
団創作、私はそのフォローとまとめ役、のようなことをやってきたが(それを演出と言っていいの
か。まあ演出たっていろいろある、と言えば演出、そういう類い)、50男に20代女子の気持ちはわ
かるわけはない。だから、かなりの部分を彼女たちに委ねつつで、「伴走」した。が、今回は原作が
あり、そこで描かれている物語は多少は身に覚えもある。それゆえ、今回はとりわけ、スタンスを
取り、入り込まないよう細心の注意で演出、舞台創作を行っている。
おそらくこの夫婦、あるいは妻の方は一生、背負い続ける。そういうことも想像出来るというか、自
分の体験に重ねると生々しく迫ってくる。だから、入り込み過ぎず、客観的に「悲劇」を対象化しよう
という演出プランで進めてきた次第。さて、観客はどう見るか。い ずれにしても上演である以上、あ
とは役者の腕次第、他者に委ねるしかない。
時間はそこで止まる。決着は永遠につかない。が、何とか光を見出すことは出来るかも しれな
い・・・、難しいが。
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一日、休みをおいて通し稽古。
今日は衣裳をつけて、初めてほぼ本番に近い状態で通し稽古。
昨年の外部で企画コーディネイター、プロデューサーとして働いた企画に出演してもらった小劇場
などで活躍してきた中堅女優のAさんが本番が公演で見られず、それでもぜひとのことで稽古を見
に来られた。
終わったところでAさんが開口一番「すばらしかった」と絶賛。
「観客に信頼を置いた演出ですね」。正直な方なので、無論、口先の言葉ではない。「まさに演劇
(たぶん、日常の再現とか’リアル’云々ではなく、フィクショナルな空間の想像力を最大限に発揮し
た舞台、という意味か)」。・・・「よくこの本、見つけてきましたね。す ごい作品(戯曲、原作の事
か)、時代と関係なくどの時代でも通用する普遍性を持った作 品」。「それにしても役者の力がすご
い、みな力がある」。「これ見たら、芝居好きにはた まらないでしょうね。この先、何度も上演しても
らいたいです」。
それなりの舞台をたくさん観てきた方の意見はありがたい。芝居を観に行き、がっかりすることが
多く(それを雑誌などで評論家が絶賛しているのを見て更に愕然とする、何度あったか覚えていな
い)、日本の現代演劇に対して、もう何十年も絶望的な気持ちに支配されてきた。褒められても喜
べなくなっている自分がいる。が、原作は一流、ドイツで幾多の賞を取り、ブレヒト賞にも輝いたロ
ーアー。その彼女の最新作で代表作だ。悪いわけはない。が、原作が良くても演出や役者がダメ
なら、舞台として良いものになるはずはない。シェイクスピアをやればどの舞台も傑作、にはならな
い。だから演出も苦心に苦心、役者も苦労に苦労を重ねている。
特に、何もない空間、「役者体」だけで空間を支えよう、という演出意志で一貫した。徹底してシンプ
ルかつ演技者の力量、語りとセリフの力、身体の強度で支える舞台を心がけた。だから、「役者の
力がすごい」と褒められるのが一番、うれしい。セリフ量が半端でない、人物の心理も複雑で深い、
そんな難しいテクストに苦労してきた役者こそ、舞台を支える一番の柱、人が柱の舞台。場面は変
わらないが、演技者の言葉で次に観客の脳裏に風景が浮かび上がってくる。演技者が支え、作り
上げる舞台、そういう演出形式。 それがうまく機能していけば、観客もきっとうなるだろう。
あともう一歩。
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今日は場面を絞って、昨日の通し稽古で気になった個所を重点的に稽古。
特に後半部、主人公ラーベの派遣された紛争地域での兵士体験を語る場面と、女性警官エトゥナ
がテロに怯える派遣した国(西欧、先進国。日本も入るだろう)の人間の妄想がオーバーラップす
る場面。妄想シーンでテラ独自のファリファリ的集団シーンを組みこむが、今日は昨日と別案を提
案。が、テラの舞台を良く知る劇団員井口、中内から演出への「ダメだし」(良いか悪いかは別にテ
ラはこうした体制を取ってきた。役者と演出に上下関係を設けない、演出は権威でなく役割、みた
いな)、で結果は不評(笑)、一応、試してはみたもの却下となる。コンセプトは重層化してきてこれ
もありだが、この時期。消化するのにちょっと時間が欲しい、本番までにこなしきれない。ということ
で今までの身体所作プランを固めて行く ことになった。
ここから戦場のトラウマを抱え苦しむ主人公と、かけがえのない我が子を失って救いのない悲哀に
沈む女性の切ない「恋物語」が終幕に向かって一気に突き進む。このラストシーンは泣く観客も出
るだろう。ともかく美しい。切なく、悲しい。悲しいが、美しい。これほどシンプルに役者の体一つで、
美しさを表す場面は滅多にない。希望も夢も見つけられない二人の、一瞬の炎がほとばしるシー
ン・・・。
こうして形に仕上がってくると、本当にすごいと改めてほれぼれする(原作、ローアーに)。新野さん
の翻訳もいい。演出と役者が少なくとも原作の良さを削ぐことはないようからだを張って四つに組ん
でガチンコの舞台になっている、そこまで何とかこぎつけてい る。あとは細かい部分をもう一歩、最
後の詰め、といった感じ。
現代ドイツ演劇の模範でもあるブレヒト劇は(演劇としての魅力も演出の腕次第で出せるのだろう
が)、よほど演出が良くないと、社会批判を前提に書かれている分、今から見ると「分別臭い」、お
説教がましい舞台になりかねない。が、ローアーはもっと切実に誰もが抱え込んでいる個人の内面
の葛藤や苦悩、ささやかな小市民の夢と希望が無残な現実に打ちのめされ、あるいは適わずに喪
失感を抱えて生きてゆかざるを得ない。そういう現実に近い分、「他人事」ではないものにしてい
る。まさに「私たちの物語」なのだ。ブレヒト劇の、社会批判が目的ゆえ結果的に類型化され描写さ
れる人物群に対し、ローアーの登場人物はより「等身大」に近いと言える。「特別」な人など誰もい
ない。正常ゆえに社会に適合できない。正常ゆえに前に進むことが出来ない。正常ゆえに紛争地
域での小さな出来事が心を激しく傷めさせる。
ラストは全員でコロス的な場面を創出。日頃、地道に何年も鍛錬を続けてきた声とセリフの力が最
大限に発揮される。
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早くも、週末。来週は本番だ。
『最後の炎』通し稽古。
今日は翻訳の新野守広さん、音楽作曲の落合さん、本番の記録映像吉本直紀さん、照明の奥田
さん来る中、役者連も緊張。
奥田さんは何と昼に足を運んだドイツ文化センターでの『HIKIKOMORI』の照明をやっていたとのこ
とで、驚いた。
「映像的な舞台」(奥田)と言われ、なるほどそう見えるか、と納得。
それぞれが違う風景画の屏風絵、あるいは絵巻物(原作は34場)をイメージしていたが、「映像
的」とはなるほどいい言葉を言う。映像を舞台で使用しない(最近どこでも舞台で映像を使うのに閉
口。元映像系サークル出身映画青年としては何ともそれはやりたくない。吉本さんは映像作家だ
が、ほんとに必要な時だけ頼むつもり)。映像を出さず生身の身体で舞台が映像的に見える、かは
観客が自由に判断すればいい。
照明案は奥田師匠でも頭を抱え込むようだった。あえて34場2時間を暗転なしで行く。役者の足の
ハコビ一つ、身体のカマエ一つで?切り替える。それを邪魔しない照明、照明があると気付かせな
い照明、しかし確実に必要なところで観客の意識を切り替え、それが当然と感じさせ、かつ出しゃ
ばらない。奥田さんなら出来るはず。
「ガソリンを頭からかぶってライターに火をつける」、「鉄のヤスリで指先を削る」、「互いに殴り合っ
て血だらけになる」、原作に描かれているシーンはすさまじい。それを生の演技でやったら、あるい
は「見せかけ演技」でやったら、目も当てられない。からだ一つ、最小限のしぐさ一つ、足のハコ
ビ、上体のひねり一つで表現する。言葉の質感でイメージを喚起させる。音楽も直しが続く。落合さ
んもよく舞台の展開を把握して下っている。ここはいらない、ここもいらない、削除ばかりを言う演
出の考えをすぐに理解して下さる。最良のスタッフに恵まれて、稽古は最後の詰めに。
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日曜の夜、イワト劇場で通し稽古。
空調を入れても効果なし、あまりの寒さに、2時間芝居の半分を経たところで休憩を入れる。
前半さえテンポよく乗り切れば、後半部はテラの得意とする身体を使った場面も入って、ラストに向
けぐんぐん加速するから心配ない。演出形式と内容ががっしりと組み合い、流れさえ滞らなけれ
ば、後はラストまで観客と一緒に「波乗り」である。
最後の重要な場面(32場)は語りの力量、集団の力量をフルに活かした場面を演出。同時に「空
間と身体」を基本に鍛錬してきたテラの身体作法が「動く語り」(からだをシンプルに移動、ハコブだ
けだが。その重心の掛け方、速度の緩急で内容を同時に表現。 能で言えば「擦り足」にあたる。
数歩で京から関東までの道のりも表現、舞台の脇を固め、脇の足場を支える。この「ワキ」であり
「地謡い」を深沢がリードし、テラの上田、シアターファクトリー(姉妹団体)の江口が絶妙に脇を支
え難しい場面の妙技を発揮する。
それに応えるように喪失の中で出会った二人が切ない魂の「共振」、出会いと突然の「別離」に至
る圧巻シーン。井口が今回の舞台で長年の積み重ねの成果を発揮、大成長の姿を観客に見せる
ことになるだろう。かけがえのない我が子を失った母が、絶望の 中でもがき(10年仕込み、テラ式
身体表現の精髄が発揮される場面)、そして静かに語り出す・・・。核となる場面だ。安心して任せ
られる信頼がある。よくぞ、ここまで成長したと感動しながら見守る。
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「わたしたちの物語」
今回の演出形式によって、しっかり「わたしたち」を「主役」とした舞台に出来たと思う。「観客席」に
いるわたしたちは決して舞台の「わき役」でも消費者でもなく、「主役」。提出された材料を自分で調
理する「主役」、あるいは料理人。むろん、その前に俳優がその材料を用意する、自分でも調理す
る。材料は原作、上演テクスト。原作を調理材料にまで加工する役は演出家の仕事。そういう問題
意識で出来たものが今回の演出形式である。形を強要する、そういうバカバカしさ、押しつけだが
ましさの「形式」ではなく・・・、「共有」の可能性をとことん探った結果の最善の道を、プロセスを提
示する役割と機能としての「形式」である。
『最後の炎』、明日はいよいよ初日。
この作品に辿りつくのに、長い時間、かかった。本当にやりたい作品になかなか出会えなかったか
らだ(気付くと25年くらい)。『最後の炎』は、時代や国を超えて語りつがれる普遍性を持った作品だ
と思う。これから上演したいという人たちも増えるかもしれない (日本に限らず)。だが、「あちらの
話」ではなく、「こちらの物語」として共有出来るものにしたいと思う。「名作」という額縁に入れず、
「わたしたちの物語」として共有出来る、そういう演技演出形式を現場の苦闘の中で生みだせたの
ではないか。少なくとも、「翻訳もの」上演につきまとう気恥ずかしさと違和感、「不自然さ」を乗り越
える有効な方法論の提示も一緒にしてみたい。
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『最後の炎』初日
世間のインフル大流行で心配だった舞台、無事、初日あける。
とにかく、ほっとする。
音楽作曲の落合さんと邦楽で耳を育てた小生のダメ出しに音響の阿部さん、よく応えてくれて本番
は舞台の声、シーンのイメージと音楽が一体となり、照明はまさに神業師の域に達する奥田師匠
の手に掛かり、見事に観客の「視覚の変容」を促す。帰り同行の新野さん曰く「照明がすごく重要と
思った」、もちろんです。使う以上、お飾りではない。観客の認識の顕在化、テクストとの直接の交
換と「視覚の変容」(認識の自覚化)、ここら辺が一体化したあかりでなければならない。それを理
解出来る「知」力が舞台照明家には求められる。技術+技術を制御する知力、これが照明デザイ
ナーに求められる能力。自身が作家でもある奥田師匠だからこそ。舞台照明、舞台音響に求める
ものは文学性というか文学力。テクストを読み込む力、そう思う次第。
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二日目、舞台。
これは再演をする、そう決めた。
役者は精鋭を揃えた。原作は日本でこそ問題提起すべき内容、題材、やる価値がある代物。照
明、音楽は一級、演出は38年の演劇経験の粋を凝縮した。どれをとっても、というかどれもが一体
となって一級の舞台になったと確信 する。
公演とは公(公け=国民、市民、庶民、劇場に来る人以外も含めた)・演(演劇する)、という意味で
の「公演」だ。だから公演をする演劇は「公けの活動」であることを自覚すべきだ。たとえ規模は小
さくとも、いや小さいからこそ、大きなメディア、新聞、テレビが取りあげないものを公けの場に持ち
込む「最も社会に必要なメディア」になるべき だ。もう一つ、演劇には可能性がある。多くの人がそ
れを体験する場。その意味で「演劇 ワークショップ」を核にした活動を、「演劇ワークショップ」が殆
ど存在しなかった1987年 から続けてきた。これからは引き続き「演劇ワークショップ」活動を続け
つつ、同時に 「公・演」活動にも力を入れて行きたい。
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土曜、昼と夜の部。
マチネー後に「シアタートーク」。谷川さん、新野さんと話の内容に関して行く度か事前に打ち合わ
せをしたが、舞台を観た後、何か強く感じるものがあったのか、「今日の舞台に関して話しましょう」
とマチネーとトークの合間、谷川さんからの申し出。それで 「即興でトーク」、出たとこ勝負となった
が笑いも取り(笑)、話しも散漫にならず、ポイントをしっかりと浮き上がらせることが出来たかと(お
客さんの後からの感想より)。
今の「閉そく状況」(社会の)、個人と社会のつながりをどう作って行くか、などかなり貴重で提言的
な内容になった。いずれテープ起こしして何らかの形で(おそらくテラのHP上)フィードバック、記録
化します。
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観客の「応答」は貴重だ。
初めてのローアー、しかも彼女の作品は日本ではまだあまり紹介されていない。雲を掴むような思
いで一年近く、テクストとにらめっこした。何か惹かれるものが強くあったからやろうと思ったのは本
当だが、何せ、このテクスト、半端ではない。半端ではないテクストを書くローアーも生半可な気持
ちで向き合ったらやけどをする相手だ。簡単にこういう奴 で、こういう考えでと偉そうに断定できる
相手などでは毛頭ない。だから手強い横綱に胸を借りる序の口の新米、のつもりで相い見、対して
みた。
公演を前にしても、どうしてもわからない事がいくつか残った。それはそれで見当をつけて正しいか
どうかは神のみに委ねるつもりで自分の解釈を持ちこんで押し切った。しかし、だからと言って、そ
れが最善とは全く思っていない。これは始まり、おそらくこれからとことんローアー、あるいは彼女を
生みだしたドイツの演劇と関わることになるだろう。そのほんの踏み出しの一歩、スタートラインに
ついたに過ぎない。今回はいわば「鞘当て」、か。こちらにあるのは30数年の間、探求し続けた舞
台造形のための様々な演技 演出技法。特に声と身体に関しては他の現代演劇の演出家に負け
ない。才能に関しては全くわからないが、努力だけは負けない。
今回は、ローアー初心者、素人の自分が演劇で培ったささやかや「技」を全面投与してガチンコ勝
負に出た舞台。「勝った」なんて露ほども思っていない。いま、やれることをあますことなく晒してみ
ただけに過ぎない。そういう中で観客が教えてくれることがたくさんある。だから、観客の視線に未
熟であってもまずはさらす勇気が必要だ。死角はいくらでもある。
この作品は続けて上演して行きたい。今回このテクストだから採用した演出スタイルが結構、気に
入っている。そして、多少強引だったかもしれないが演出スタイルとテクストはうまく噛み合ったので
はないかと思っている。
観客からの応答をいただいて、そこで見えてきたこともあった。これまで「謎」だったことも分かって
きた。知らない相手(ローアー)に胸を借りて上演をするには無謀さも必要だが、その後には謙虚
に観客の声に耳を傾けてみたい。一年間、目で読み、実際に稽古場で役者に声にしてもらってひ
たすらその「声」に耳を傾けてきた。それでも十分ではない。観客の声がここで加わり、ようやく舞
台作品として何かが見えてくる。いや、理解し近づくための第一歩がようやく踏み出せた。そういう
ことだ。たとえ完全な理解は不可能としても、少しでも近付く、ことは出来るだろう。
ラーベ、ズザンネ、エトゥナ、カロリーネ、ローズマリー、オーラフはそれぞれ適役が揃っていたが、
問題はルートヴィヒとペーター。特にルートヴィヒがやれて、このテクストがこなせる、この演出形式
でやれる俳優がなかなか見あたらなかった。結果的にペーターにと考えていたWS10年参加の江
口君にルートヴィヒを、初参加の久堂さんにペーターA、 岸君にペーターBという変則スタイルで行
くことにした。役者はずいぶん回りにいるが、力がない。語る力、声の力、そして身体を制御し使え
る能力。ゆっくり歩くと重心が高い からふらふらする、それでは困る。が、重心が落ちている(腰が
入っている)役者は滅多にいない。首から上、顔で演技するのが、普通になっている。テレビならそ
れでいいだろうが、舞台は板の上にしっかり身体が立たないと始まらない。
それに今回はいろいろと役者に制約を課している(アイコンタクトをしない=視線を交わさない、直
接的に絡まないで会話する。声を出すとき、最大音量でもからだがぶれない。「気持ち」、「感情」に
依存しないで、物理的に言葉をきちんと発する。言葉の力で客にイメージを想起させる)。幾つか
の事は舞台役者にとって基本だと思うが。
そんなことでぎりぎりまで役者を探すのに時間が取られ、その分、宣伝が犠牲になったが今回はこ
れでいいと思う。妥協して意識が共有できない役者を舞台に出せば、舞台だけでなく、長い稽古場
期間が苦痛になり、アンサンブルも滅茶苦茶になる。現場の意欲も殺がれてしまう。宣伝が殆ど出
来なかったが、そのかわりしっかりした舞台になった。今回はあくまで初演である。
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