作品資料
テラ・アーツ・ファクトリー集団創作作品
『ヒロコ』
(上演パンフレットより)
『ヒロコ』上演参考資料
●ブリコラージュ:その場にあるものを集めて自分で作る、ものを自分で修繕するという意味。理論や設計図に基づい
て物を作る「エンジニアリング」と対照をなす方法。身近にあるものを集め、それらを部品として何が作れるか試行錯誤
しながら全体を作ること。
フランスの人類学者クロード・レヴィ=ストロースは、近代以降の「エンジニアリング」の方法を「栽培された思考」と位置
づけ、ブリコラージュを人類が古くから持っていた叡智、「野生の思考」と呼び、近代社会にも適応される普遍的な知の
あり方と考えた。
●立川史:1922年(大正11年)、立川飛行場開設、陸軍航空第5大隊が設置された。1929年(昭和4年)、立川で
日本航空輸送株式会社(JAL)が設立、立川−大阪間に日本初の定期便が運行。1945年(昭和20年)、戦争終了と
同時に米軍進駐、1952年、朝鮮戦争の際、立川飛行場は極東最大の輸送基地となる。
●砂川事件:1957年、米軍立川基地拡張に対して基地拡張反対運動(砂川事件)が起きた。事件は東京調達局が米
軍立川基地拡張のための測量を行おうとした際、基地拡張に反対するデモ隊の一部が、米軍基地立ち入り禁止の境
界柵を壊し、基地内に数メートル侵入したもので、デモ隊のうち7名が日米安全保障条約第6条と国内における米国軍
隊の地位協定に伴う刑事特別法違反で起訴された。
●伊達判決:東京地方裁判所、裁判長判事・伊達秋雄は、1959年3月30日、「日本政府がアメリカ軍の駐留を許容
したのは、指揮権の有無、出動義務の有無に関わらず、日本国憲法第9条2項前段によって禁止される戦力の保持に
あたり、違憲である。したがって、刑事特別法の罰則は日本国憲法第31条に違反する不合理なものである」と判定し、
全員無罪の判決を下した。これに対し、検察側は直ちに最高裁判所へ跳躍上告している。
●その後の立川基地と砂川事件:米軍は立川基地から横田基地(東京都福生市)に移転することが決まり、1977年
11月30日、立川基地は日本に全面返還された。跡地は東京都の防災基地、陸上自衛隊立川駐屯地や国営昭和記
念公園ができたほか、国の施設が移転してきている。
米軍駐留は違憲であるとした1959年の「伊達判決」直後、当時の駐日米国大使が日本側の外務大臣や最高裁長官
に面会していた問題で、外務省が「関連文書不存在」としていた従来の姿勢を翻し、文書の存在を認めたことが分かっ
た(2010年3月)。
●大槻節子:
1948年、横須賀に生まれる。
1966年、横浜国立大学に入学。教員をめざしていた。
1967年、学内で小グループだった「反帝平和青年戦線(YF)」に加盟。
1968〜71年 日大・東大闘争、沖縄闘争、反安保闘争の過程で、YFの上部組織が分裂、過激化。悩みながらも活
動に従事。
1972年、迦葉山で「総括」の犠牲となる。享年23歳。
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