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舞台批評

原 周 (45歳、会社員)
ノラー人形の城ーを観て

何が特異といってまず、"集団創作"というのが特異である。

通常、劇団での芝居づくりは、既存の又は座付作者の書いた台本 (ほん)でその劇団の主宰者たる(という場合が多いようだ)演出 家によって、その絶対的な支配構造の中で作られていく。

私は今年の5月からTFのワークショップに参加しているが、そ の中で林さんは、芝居作りの現場に於いてまず台本(ほん)があっ て、その役を演じる役者がいて、そしてその役者を意のままに動 かす演出家がいる、という構図を破壊したい、そういう力関係で 作られる芝居ではない演劇を創りたいと語っておられた。

又、同時に、上演された"完成形"としての演劇ばかりに目を向け るのではなく、どのように舞台が作られていったのかという"創 造の過程"をも、つねに問い続けていかなければならないという ような事を、この私の短いワークショップの参加歴の中でさえ、 何度も聞かされてきたことである。

殆どの人が、今までそういった演技者と演出家との構図や力関係 に疑問を投げかけることなく受け入れて来たように思える。私が 今まで観てきた芝居も、殆どがそういう構図で作られたものばか りだった。

2007年7月26日、テラ・アーツ・ファクトリー公演『ノラー 人形の城―』初日、午後7:30、私はザムザ阿佐谷の客席にい た。初めて観るテラの上演に立ち会う為である。客電が落ちて暗 転。恐ろしいほどの緊張感の中で、舞台は始まった。少女達のシ ーンはいずれも、むき出しの魂が闇を浮遊しているように思え た。紡ぎ出される、科白自体は空疎なものだが、その背景(バッ クグラウンド)に、巨大な人間の欲望が渦まいているのを感じさ せるのである。
そして、非常にゆっくりとした動作がそれを裏づけする。

実は、私は二度ばかり、この公演のための稽古の現場に林さんに 誘われ見学をさせていただいたことがある。前半のいくつかのシ ーンを観せていただいたが、そのうちのひとつ、Webの掲示板か らの引用の科白で、かなり過激で平常心を攪乱させるような内容 のものがあった。しかし、その発語の仕方について、どういう言 い方がいいのか林さんを混じえて喧喧諤諤、意見を闘わせいろい ろな言い方を演技者が実験で発語したが、その時は結論は出ず今 後の検討ということになったが、それが、本番でどのように発語 されるようになったか、どのように関係性がつくられたのか、楽 しみにしていた。しかし、上演ではその科白自体がカットされて しまっていた。私としては、そのことが少し残念に思えた。稽古 の時より、だいぶ"毒"が薄まってしまったような印象だった。で きれば、私は猛毒にあてられ斃れたかった。

それでも、ひとりの少女が男に回りを囲まれ、次に女に囲まれ、 小突かれ、突き押されつづけるシーンは、永遠につづくかと思わ れ、気が遠くなりそうであった。白日のもとで繰り広げられた惨 事とでも云うのか。

終盤、男たちが発語しはじめ、いままでちやほやかわいがってい た"籠の鳥"に対して、とうとう本性を現しはじめる。このシーン で、一挙に緊張感が高まった。このシーンで、この舞台でのはじ めての具体的な言葉でのやりとりが見られる。唐突とさえ感じら れるそのダイアローグは、同時に物語がやっと外へむかって開け 放たれたように感じる。その後のノラについては知らない。おそ らくノラは、ノラとして生きてゆくのであろう。

この芝居は男という性と、女という性の相変わらずの社会的力関 係の抑圧、支配構造を暴いてみせると同様に、演技者と演出家の 力関係―支配構造、すなわち、既存の演劇の作られ方、又はその あり方自体を問い直させ明確に"否(ノン)"を突きつけるものでも あった。

ノラと演技者、男(達)と演出家はそれぞれ合わせ鏡の用に相対 (あいたい)しているのである。従ってこの芝居は、"演劇につい ての演劇"と読み換えることも可能である。

しかし、そういった劇の構造についてはひとまず措くとして、劇 の展開としては、もう少し、観客を戦慄させ困惑させ、動転させ るものであって欲しかった。少し、林さんの優しさが出た。

私は客の多い芝居は信じない。無節操・無感覚な客達がその上演 の"場"に存在(いる)というだけで、劇空間が壊れてしまうからで ある。そんな現場を私は何度も観てきた。観客とともに自壊して いった集団の末路は哀れである。

――極北に屹立する集団、私の目に狂いがなければ、テラは今、 そこに向かいつつある。



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 [リンク] シアターファクトリー企画 林英樹の演劇ワークショップ