『メタアイランド』論
丸山隆正
『メタアイランドVOL.11―眺めと長雨の間で』(1988年7月1、2、8、9日上演)は、『メタアイランド』シリーズを連続上演
してきたTERRAの活動の流れに新しい方向性をうちだした舞台だった。その新しい方向性―即興(インプロピゼーショ
ン)は、現代演劇に対する一喝と新たな展開を期特しうる予感に満ちているものと思える。
即興という言葉は、使われ方が曖昧で、またその定義もはっきりしない。例えば、TERRAも青い烏もその違いは明らか
であるが、とりあえずは即興性のある舞台ということができる程である。しかし、即興について語る場合、それにつきま
とう曖昧さを払拭せねぱ論を進めることはできない。ならぱ、即興の本質とは何か。それは、次に何が起こるのかがわ
からぬことである。これから続いて起ることが予見できない、または前もってその段取りをしていないことが、即興であ
ることの最低条件であろう。今述ぺた即興の本質を問題にするならば、TERRAも青い鳥も共通している。にもかかわら
ず、この二つの即興に決定的な違いがあるのは明白だ。それは〈何を軸にして〉即興しているかの差である。前者は身
体を、後者は話術を、である。どちらが即興という視点から演劇の本質を、演技、広い意味では演劇の可能性を追求し
ているかは説明するまでもないだろう。身体(感覚)を軸にした即興は、物語性を否定、破壊する。だが物語性を否定し
ながらも、演技者は舞台上でリアルタイムの物語を発生させていく。観客は前もってきめてあるものの再現を観るので
はなく、最もナマな形での物語の発生現場に立ち合うのである。
『メタアイランドVOL.11〜眺めと長雨の間で』より、中央丸山隆正
しかし、ここで疑問が残る。演劇において即興性(段取りをなくすこと)をどこまで徹底できるのか?またすぺきか?構成
演出と即興という相反する性格をもつ二つの兼ね合い、バランスをどう保つのか?演技者は台詞を憶え、立って動きを
つけるだけの〈記憶の演技〉が通用しないならば、演技者に対して要求されるものは何か?また、それに対するアプロ
ーチは?体系的かつ普遍的な演技メソッドは?即興が常に観客に対して一定のレペルに達していられるのだろうか?
即興というものにおいて、到達すぺき理想型は何なのか?そのようなものが存在するのか???…?
このような危険性、不可能性を前にしても、なお、演劇における即興性は魅力的だ。即興は、『俳優は、演ずる度毎
に、役を生きねばならない…あらためて生き直され、あらためて体験し直さなけれぱならない。』とするスタニスラフスキ
ーの言葉を超越している。即興においてこの言葉は単なる前提でしかないのであるから、このことは、即興が従来の演
劇、演技のあリ方を超えた新たな境地を切り拓く「未来形の演劇」たりうることを示しているのかもしれない。事実、7月
の『メタアイランドVOL.11』はその片鱗をかいまみせる舞台だった。即興の未知性、不可能性、危険性に立ち向かうシ
アタープラン・TERRAの活動は、プレシアター(前・演劇)と銘うたれているが、完成形としての即興、完成形としての演劇
を想定し、指向できない(しない)彼らは、「未知なるものを未知なるものとして捉える」という、ある種、途方もないことを
実践しているようにみえる。答えのない問いに対して無限の解答を用意する彼らの姿勢は、演劇(シアター)を解体し、
生成以前のカオス状態=プレシアターを生み出す。
『メタアイランド』シリーズにかかわる今公演『イクス』(=X、未知なるもの)は、即興性を核とした身体表現を軸として、さ
らなる実験性を、より深い到達点を我々に提示してくれるであろう。
(『イクス』上演に際して発行された「テラ草子」より)
*丸山隆正(当時22歳、学生)は早大劇研出身で、その後、自身の劇団を立ち上げ、またSPACE5(早大6号館アトリエ)自主管理運営委員会の
代表をつとめた。批評と現場をつなぐ意欲的な連続シンポジウムなどを企画し、シンポジウムやレクチャーに招聘した気鋭の哲学者や批評家と対
等に議論しあえる俊英でもあった。彼らからも将来を嘱望されていたが、突然不慮の事故で死す。複数の劇団のリーダーもメンバーに入っていたこ
の時期のTERRAの共同作業者として舞台にも参加している。
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