テラ・アーツ・ファクトリー1985−1990の活動

批評「等身大の未来」 七字英輔
シアタープラン・テラ(現テラ・アーツ・ファクトリー)創立記念公演
東京アートセレブレーション参加
『サバイバル・コロニー』
作・演出 林英樹

『サバイバル・コロニー』(1985年上演、86年再演)は
演劇集団アジア劇場で物語性の強い劇作品を書いていた林英樹が
物語性を持った上演台本を書いた最後の作品である。



「サバイパル・コロ二ー」とは実際うまく命名したものだ。「サバイパル」とは"生き残ること"であり、今から十年ほど前、
『アウトドア・ライフ」という言葉と共に流行した。都市の文明から脱れて野外生活を送ることが、当時は破減に瀕した人
間の生存を救うことだと思われたわけだ。たとえそれが週末にキャンピング・カーで釣りに出掛けることだとしても…
…。一方、「コロニー」にもどこか牧歌的な匂いがある。十九世紀末から今世紀初頭にかけて画家ハインリッヒ・フォー
ゲラーらが西北ドイツの寒村、ヴォルプスヴェーデに當んだ芸術家コロニーや、ジョージ・オウェルら空想的杜会主義者
らが夢想した社会主義コロニーのように。

といっても、林英樹版『サパイパル・コロ二ー』は、そうした反文明を標榜し、田園生活への回避を主張したものではな
い。ここで描かれるのは未来社会である。無機的な鉄柱が所挟しと並び、そこここにヴィデオのモニター受像器が放置
されている。この廃工場のような舞台の上で蠢いているのは今や廃物と化したロポットばかりなのだ。さて、そこへ一体
のアンドロイドが金属性ベッドに横たえられたまま運びこまれてくる。人問としての記憶を脳中深くインプットされた、生
命体としてのアンドロイド。

いや、こう書くのはフェアではない。ロポットといい、アンドロイドといっても、それが判明するのは劇の進行によってだか
らだ。ただ興味深いのは、このアンドロイド、蘇生すると直ぐに、自分は人問ではないのではないか、と疑いはじめるこ
とだ。

自分を人問だと信じきっていたアンドロイドが己れの正体を知り、自分たちを躁作する者たちに反乱を企てると、その
行動すらもあらかじめプログラミングされたものであった、という二重三重のドンデン返しが用意されていた川村毅の
『ニッポン・ウォーズー』が思い出されるところだが、この『サパイパル・コロ二ー』のアンドロイドは、初めから「悩める人
問」の比喩として登場してくる。その点では、この前段に登場し、さながら漫才のポケとツッコミのように蜿蜒とおしゃぺ
りを続ける二体(基?)のロポットのように『自我」を持たない存在ではない。むしろ彼は、失われた「自己」を回復するた
めに「アンヌプリアー」と呼ばれる、最後の人間たちが生息しているはずのスペース・コロ二ーへ脱出を試みるのだ。

しかし、このドラマを自己発見、あるいは目己表現のドラマだと考えれば、当然ながら、そのようなコロニーは彼の幻想
の中にしか存在しないことは明らかだ。工場を破壌し、脱出した途端にアンドロイドもまた、ただのガラクタ機械に戻っ
てしまう。

もうひとつ種明かしをすれぱ、舞台には作者の分身と覚しき人物(鞄をもった男)が影のように現れ、アンドロイドに語り
かける。つまり、アンドロイドは、この人物の幻想を通した男の鏡像にすぎないのだ。

こうしてみると、このドラマが「未来」という時空問を舞台に選びながら、意外にクラシカルな構造をもっていることに気づ
くだろう。

鏡をこの世界を映しだすもうひとつの仮象世界と捉える方法は、世紀末の象徴主義から今世紀の表現主義に至るまで
の変わらぬ手法だった。そこでは最終的には鏡を打ち砕くことで、分裂した自己(ドッペルゲンガー)を再ぴ同一性のもと
へ回復し、迷妄を脱し、魂の救済へ到達することが図られる。その意味では、若手の作家たちによっていま多く描かれ
ている「未来」は、われわれにとって等身大の現実のもうひとつの仮象にすぎない。未来は「鏡」なのだ。

そういえぱ舞台上に散見されたテレビのブラウン管こそ、現実を映しだす不透明な鏡にほかならない。


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