演劇企画団体 テラ・アーツ・ファクトリー

「『CATALY』について」
(1994年2月/東京、シアターX上演「CATALY」より)
石井達郎

「CATALY」の公演空間に入った時、小劇場の空間として久々に興味を味わった。舞台を見下ろすような「コ」の字型
に、観客席がしつらえてあり、観客はその極端に限定された櫓の上から、奈落を覗くように舞台を見下ろすようになって
いる。多くの「尖鋭的」と言われる演劇人が、自ら書き下ろした新作戯曲を役者に覚えさせ、それを旧態依然の額縁舞
台にのせるというプロセスを、なんら疑問をさしはさむこともなく踏襲してきているのが不思議だった。そんな舞台を役
者がナルシスティックに絶叫して走り回り、せいぜいテレビのコマーシャル程度の気の利いた文句をちりばめた芝居
が、結構当たって、「今一番新しい演劇」などと情報誌がはやしたてる。真に尖鋭的であるならば、演劇人のコンセプト
が彼が書いた言葉の中だけに封じ込められるものではなく、それが劇場空間の変容を必然的に要求するはずである。
さらにそのコンセプト実現のためには、舞台と観客席という連繋、あるいは「劇場」という制度そのものまで、根底から
問い直さなければ嘘だ。そうしてこそ、人がなにかを表現する空間の磁場は、演じる者にも観る者にもジワジワとしみこ
むような波動を発するはずである。


現在のTAFの前身TERRAの公演を東京や福島で80年代後半に見て、林英樹率いるこのグループの活動は、そんな
磁場をつくりうる数少ないグループだと思っていた。「CATALY」を、小奇麗に整った小劇場でやるので(この劇場そのも
のは、ジャンルにとらわれない刺激的なプログラムを提供してくれるが)、どんな公演方法をとるのか興味があったが、
なにものにも馴れあうことなく身体と空間の織り成す一回かぎりのリアリティをダイナミックに現出させるというエネルギ
ーは、数年前から首尾一貫している。観客席を徹底的に変容された空間で、訓練させた肉体を躍動し、光と影が交錯
し、得体のしれないオブジェが浮かび上がる。観客はどうやら、墓場のような地下世界を上から覗き見するという、のっ
ぴきならないポジションに置かれ、そこに固定されてしまったようだ。墓穴に朽ち果てた自分自身の死体を見るかわり
に、朽ち果てた世界の構図を突きつけられる。その世界とは、まぎれもなくあなたと私の世界であり、その構図とは20
世紀になっても飽くことなく、殺戮、レイプを繰り返し、弱者から搾取しつづけるあさましき「人間」というものの存在であ
る。


80年代は、「パフォーマンス」という言葉が流行し、マスメディアやコマーシャリズムが時流に乗って、意味が曖昧なまま
にこの言葉をもてはやしたが、そんな流行とは一線を画するところで、内外の一部のアーティストは、音楽、彫刻、絵
画、舞踊、演劇など既成のカテゴリーの境界などあたかも最初から存在しないかのごとく、人の行為、言葉が異化さ
れ、音や光、さまざまな物との新鮮な出会いの現場をつくりだした。「CATALY」を含めた林英樹の一連の活動は、その
ような現場を現出させることに加えて、常にそこに広がりのあるテーマ性を内在させる稀なものだ。飽食と成金の島国
日本のなかで、林のようなメンタリティーを維持できる演劇人、そしてそれをビジュアルに空間化するために、なにもの
にも囚われずに、白紙から方法論を模索できる演劇人の仕事を、これからもじっくりと見守っていたい。




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