テラ・アーツ・ファクトリーは1999年8月にクロアチア現地共同製作作品として『デズデモーナ』公演を
企画し私が演出を担当した。『デズデモーナ』は1998年8月、クロアチアのアドリア海に面した古都プ ーラ市の国立劇場が主催したフェスティバルに林が招聘されワークショップを実施したことがきっか けとなり、その後一年間、現地の俳優たちと日本に帰国した林の間でリモートによる創作が続けら れ、翌年1999年8月のフェスティバルで発表される予定の集団創作による舞台であった。が、その途 上でコソボ紛争が激化し、NATO軍のベオグラード空爆が始まった(1999年3月)。NATO軍の出撃基 地の対岸にあるプーラ市は空爆に向かう爆撃機の飛行コースの直下にあったため空港は閉鎖、民 間機の離着陸は不可能となり、劇場はこうした状況下での国際フェスティバルは不可能と判断し、 『デズデモーナ』公演も中止と決まった。が、直前に紛争が終結(1999年6月)、ぎりぎりまで公演の 実施を求めて稽古を続けた俳優たちの努力もあって公演は無事、実現した(1999年8月)。
一方、同じ時期にテラ・アーツ・ファクトリーが日本で企画した公演に『カサンドラ』がある。『カサンド
ラ』は、クロアチアの『デズデモーナ』と並行して制作され、1999年3月に東京で上演予定の舞台であ った。『カサンドラ』は戦争を題材としたギリシア悲劇を一方の柱にして、もう一方は参加メンバー自 身の手による集団創作で作られた5,6篇の短い現代日本を舞台にしたエピソードを並立させる手法 を用いた実験的な作品であった。が、諸事情が重なって日本でのプロジェクトのスタートであり、ワー ク・イン・プログレスの第一歩となるはずだった公演は中止となった。
『カサンドラ』公演の中止、『デズデモーナ』公演の実現ののち、1999年10月から文化庁の在外研修
で一年間、オランダを拠点に欧州滞在し遠方から日本を眺める機会を得た。そして2000年10月に帰 国。当初は拠点をオランダに移し、そこから10年間に欧州内で形成していた人脈を使って国際共同 製作を展開したいと計画していたが、それを止めての帰国であった。私は以前から務めていた専門 学校に復帰し、卒業公演ゼミを持つことになり、その卒業生たちと集団作りから再出発することにし た。私の呼びかけに応じたのは2003年の卒業生(1984年生まれ)を中心に2002年、2004年の卒業 生が加わり総勢10名。全員が女性だった。ここからの再スタート、そして彼女たちの「いま、ここ」に 足場を置いた集団創作の試みを開始した。
日本は世界でもまれに見る自殺大国である。年少者の自殺も多い。この背景には日本独自の社会
構造や仕組み、学校教育のあり方、人々の精神構造などが複合的に絡んでいる。ヨーロッパ滞在で 見えてきた日本独自の潜在化する問題にフォーカスを当て、かつ彼女たちにとってより身近な場所 からの集団創作を開始することになった。本誌に掲載したのは、作品ごとに彼女たちによって作ら れ、或いは口ずさまれた言葉の記録である。上演台本ではない。舞台制作のための部分的なパー ツにあたるものである。20代となったばかりの成人した彼女たちにとって、少しだけ「距離」の取れる 10代の少女たちが抱える内面の危機を匿名掲示板という手法を使って、インターネット上に書き込 んでいく。もちろん、成人した彼女たちにとって10歳も年下の子供たちは他者であり、10代の少女た ちの抱える内面の危機に対して、非当事者に当たるものだ。が、一方でその頃の年齢を近過去とし て経験してきたことで当事者的な立場にも立ち易い。その加減をコントロールしてもらいながらの創 作を試みてもらった。それが「掲示板匿名テクスト」である。一方、「短句」「連句」は稽古場に集い、 サークルを使ってテーマを毎回決め、短い言葉を一人ずつ順番に口ずさんでいく手法を使い、のち ほどその中から作品の場面と噛み合いそうなフレーズを取り出し、順序を決めて構成したものであ る。20代の女性たち自身が語り手となる集団創作は、結果的に或いは意図的に日本社会のジェン ダーアンバランスを映し出すものとなった。
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