テラ・アーツ・ファクトリーの名のもと、新しい集団で上演活動を再開し
てもうじき二年。その前の準備期間も入れると現在のメンバーとは六
年近いつきあいになる。手探りだった「集団創作」スタイルも、はじめ
の頃に比べスムーズに行くようになってきた。
2001年以降、私の周囲には大勢の俳優を志す若者が集まった。あ
る学校で演技を教えていたからだが、卒業後も大勢の生徒があとに
ついてきた。が、たいがいは、何ヶ月も稽古や作業に時間を費やし、し
かもお金にならない舞台や劇団のような活動には加わらず、事務所に
所属し映像の仕事に向かおうとする。舞台をやりたいと思う者も大手
の劇団に入ろうとする(結果的にその養成所に入る)。俳優や演技者
を目指すなら功名を目指すのは自然だ。
二年前、新集団を立ち上げる時、そこに参加しようという者たちは、こ
ういう「自然の成り行き」からはずれた、いわば他に「行き場」の見当
たらない者たちであり、結果として二十代の女子ばかりになった。
テラ・アーツ・ファクトリー(以下、テラ)の創作方法や演技に対する発
想、訓練方法が自分の身体に合う、これが最も大きな理由である。同
時に、彼女たちのある種の不器用さにも起因する。生き方の不器用
さ、と「お芝居」の役や演劇の因襲的な決まりごとに器用に適応できな
い不器用さである。だからか、テラのメンバーはみなマイペースであ
る。そういう意味では美術家やパフォーマーの集団に近い。私も集団
でいつもべたべたくっついているのが好きではない。稽古が終われば
すぐ解散にする。呑み会に行くのは、打ち合わせがある時で、必要の
ない者はそれに無理に付き合わなくてもいい。
もちろん、話し合いは徹底する。それは呑み会でなく稽古中でもいつ
でも必要に応じて、やる。話し合いをしながら作品を作っているのだか
ら当り前だが、こうして一つの作品が最初のプランから上演という形に
なるまで、場合によっては三年とか四年とかかかる時もある。すでに
上演した何本かの作品は、集団立ち上げ前から創作プロジェクトをス
タートさせていたものだ。
この三〜四年というのは、稽古期間ではなく、むしろ作品を生み出す
ための思考期間だ。だから上演作品はその形象以上に、水面下でメ
ンバーの思考が渦巻き、上演はその思考作業の氷山の一角に過ぎな
い。
「みな、この集団も演劇も、やめるつもりないよ」、女子連中の要にな
っている藤井理代がふと言う。テラは1980年代後半から活動を続け
ていたが、それは演劇集団(劇団)ではなく、時期によって多少異なる
が、ユニット形式だったりプロデュース形式だったりし、その中で海外
での十年に及ぶ活動経験も含め多くの経験、ノウハウ、演技や創作
の方法論を形成してきた。それらを継承する形で2005年に新たな若
いメンバーを得て演劇集団化した。
テラの前身である演劇集団アジア劇場は、<集団性>を演劇活動の
中軸に据え、そこから集団演技の方法やそれを支える戯曲、役者の
存在に根拠を置いた活動を1980年代前半に行った集団である。二
十二年前に集団を解散し、そこからテラは出発した。二十年を経て、
新しいメンバーにより再び演劇集団を立ち上げたことになる。だから
個人的には二十年かけての「準備期間」があり、前の反省が続き、二
十年もかかってようやく再スタートしたような、まさに「牛歩」のノロノロ
集団である。それもあってか、新演劇集団を結成したとき、十年後、二
十年後を視野に入れた活動ビジョンや集団スタイルを考えた。います
ぐ評価の必要はない。継続し、確実に蓄積する。その核に演技があ
り、演技の方法論があり、創作方法のシステムがあり、その上に作品
レパートリーがある、と。
テラは上演と並行しながらダンスやマイムではない身振り、動作表現
も含め、いくつもの演技訓練や創作システムの方法化を行っている。
新集団をスタートさせる時、自分が不在になっても存続できる集団を
想定したことによる。存続するか否かは未来の結果だから今からどう
こうも言えないが、少なくとも集団を立ち上げる以上、現在のリーダー
である私がいなくても成立する集団、を構想した。傑出した才能の座
長を中心に多くの小劇場の劇団は集団を形成している。テラはそうい
う集団をめざしていない。同時に前近代性を払拭している。皆が対等
に意見を言い合える、そういう劇団内民主主義を徹底しているし、上
下関係も持たない。たいがいの集団は、座長である演出家、あるいは
劇作家がボスとなり、たとえ革新的な舞台を創造していても、集団自
体は「家父長的」前近代社会そのもの、である場合が多い。ここから
変えたい、のである。つまり個人をヘッドにした集団ではなく、システム
を作る、創造のメカニズムを作る、それが今、テラがやろうとしている
実験であると言える。
|