原作解題

原作解題

さすらうシリアへ
『ハイル・ターイハ』
中山豊子(原作翻訳者)

作者アドナーン氏は、テレビの大河ドラマ『血の杯』などの脚本を手がけ、コアなファンがいる一方で、郷里ラッカ県ゾー
ルシャマル村のドキュメンタリー映画を製作。詩集ではダマスカス方言、出身地のメソポタミア方言を区別して詩作する
など郷土愛の強い作家だ。本作『ハイル・ターイハ(さすらう馬)』はアドナーン氏二作目の戯曲である。
 
「紛争地域から生まれた演劇9」のリーディング上演時には「ベドウィン母娘五〇年の追憶の物語を一晩で語り継ぐ魂
の巡礼」という副題を添えた。第二次世界大戦後のシリア独立からさほど経ない頃の作者の故郷をモデルに、祖母か
ら習った詩歌や自身の幼少期からダマスカスへ進学するまでの体験を織り込んでいる。土着の根深い因習と近代化し
てゆく社会、厳しい自然に翻弄されながらも強い意志で同調圧力を破り、人生を切り開こうとする母娘二代を描いた作
品だ。

現代のマカーマート
この作品は、形式的にはマカーマートそのものである。『マカーマート』(マカーマの複数形)は十〜十三世紀の技巧的
なアラブ語り物文学であり芝居の脚本である。現在では古典として読み継がれている。楽器の伴奏を伴った旅芸人が
邸宅での宴、街道辻、広場などで演じてきた。マカーマの形式は一人の語り手が過去の出来事を語り、複数の登場人
物を演じ分ける。短いエピソードがオムニバス形式で連なるが、一貫した登場人物がいること、かつストーリー部分の
散文と、詩の韻文で構成されるなど『ハイル・ターイハ』はの形式を用いた現代戯曲だ。詩人アドナーンならではの甘美
な詩が素朴なエピソードに余韻を残している。


死者との対話
主人公ハイル以外の登場人物は故人である。死者との対話を通して生きている自分の存在を浮き彫りにしている。こ
の「自分の存在とは何か」の問いと答えの舞台として第二場と第二〇場の場面がある。

この物語の起点と終点はダマスカスのカーシウーン山中腹にあるイブン・アラビーの霊廟である。イブン・アラビーは十
三世紀のスーフィーズムの哲学者。シリアでは少数派で「イスラーム神秘主義」と訳されることの多いスーフィーは、多
数派であるスンニ派の権威主義・形式主義を批判し、「自己の経験に基づいて判断し、現実を見よ」という立場をとる。
イブン・アラビーは『存在一性論』を著し抽象的な「神=存在」を通して人間はどうあるべきかを考察した。そこでは「ハイ
ルがいる」を「存在がハイルである」と置き換える。ハイルが運命に導かれて恩師ムハンマドとこの霊廟で再会するとい
う設定はイブン・アラビーの思想に基づいていると思われる。

一見あまりにもアラブ・イスラーム的で東洋には馴染みのないようなこの作品には、能に通じる幽玄を感じ取ることがで
きる。ターイハは物狂いの女であり、抑制された情念を持つ女。ベドウィンの母と殺されたクルド人の父の因果が娘の
人生を翻弄する様は仏教的とさえ感じられる。異なる宗教思想のようでイスラームの「関係性」を東洋の「縁、因果」と
置き換えると近しく感じる。


因習のはざまで
回想のシーンではベドウィン、被差別民シャワーヤの民、クルド人など軽んじられ、教育の機会が乏しく、近代化の恩恵
に与れなかった地方の見捨てられた者たちに光を当て、現在の内面を表すモノローグのシーンではダマスカスの都市
民ならではの苦悩が描出され、対比・交錯し陰影を深める。

主人公の母ターイハの夫フーザンはクルド人だ。異民族間の婚姻が極めて困難な中で自由意志を貫いて結婚した。ク
ルド人はイラン系の民族で、イスラーム教が多数を占めるものの、土着のゾロアスター教を土台にイスラームも同時に
信仰するという二階建ての宗教観を持つ。そのためか、生粋のイスラーム教徒のアラブ人にはイカサマ的な感情もあ
る。クルド人は中央政府から弾圧され母語のクルド語を使うことが制限されてきた。「小鳥のさえずり」という劇中の設
定は「人間の言葉として理解されない言葉」という比喩ではないかと感じ取れた。

シリア内戦中の近年になってやっと、教育の中にクルド語が取り入れられた。二千十五年、クルド語のクルマンジー方
言によるアルファベット表記の教科書が発行され、シリア北部にあるロジャバ地域(クルド全域から見た西の意)の学校
で民族教育・母語教育に利用されている。

ターイハの夫フーザンが殺された理由も、血の掟――名誉殺人が描かれているクルド詩人・歌手シバン・ペルウェルの
歌も同根の背景がある。翻訳監修に携わっていただいたアーヤ・ハリールさんは、「現代では同じ大学に通う学生同士
の恋愛結婚もあるが、伝統的価値観の強い都市民や地方の小さな村の構成員はほぼ血族であり、よそ者との婚姻は
村の共有財産の逸失とも捉えられ、その事が自由な恋愛・結婚を阻んでいる」という。

村の因習だけではなくシリア政府による「人の目を気にしなければ生きられない相互監視社会」を表わすのが、第十二
場「投獄されて体調を崩した人」のくだりだ。秘密警察により「思っていることを正直にそのまま口にするだけで投獄され
る」こともあることから、悪事を働いての収監ではないことに留意したい。


シリアの現在
近年のシリアの混迷と『ハイル・ターイハ』に絡めて語るとすれば、ダーイシュ=イスラーム国の首都に定められたラッカ
はアドナーン氏の郷里の地域である。中央の権力が及びにくく、拠り所が土着の因習「裁判よりも仇討ち」という土地柄
ゆえにダーイシュに付け入る隙を与えてしまったとも言えよう。

数年前に、シリアから難民として欧州へ渡った人々が大々的に報道された。中でも身なりの良い若い男性が多く見られ
たのを記憶しているだろう。注32に記した「慣習」のように若い男性は概ね婚資あるいは持ち家を所有している。そのた
め、いざという時に家を売り払い密航業者に払う渡航費用の支度金(欧州方面への密入国相場は現在四千ドル)など
が工面できる。同胞同士の内戦で兵役につくことに抵抗感を持つ国民は多い。報道されていない良心的兵役拒否者が
とる手段が国外脱出なのだ。その中には日本に渡航してきた者もいる。

壮年期の男子の減少に伴い、現在アサドの政府軍では十五歳の少年や女性も軍務に就いているという。


なかやま・とよこ
東京生まれ。書籍編集、雑誌デザイナー、校正などの仕事を経て、40代半ばにしてアラブ イスラーム学院でアラビア語
を学ぶ。
2015年8月 日本演出者協会主催「国際演劇交流セミナーパレスチナ特集」用に『Playing in a Camp』、『Little Adults』
を邦訳。また、学院にて「劇団ラクだ」を主宰、アラビア語狂言を上演している。演目に附子、首引、くさびらなど。


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