舞台批評
「マテリアル/糸地獄」感想
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今回、戯曲がベースにある、という事でどのような劇になるのか楽しみ
にしていました。やはりいつもと感じが違う…毎回違うのは当たり前な
のかもしれませんが、また新鮮な気持ちで楽しませていただきました。
「普段の生活より軍隊にいる方がまだまし〜」というような新聞記事を
読む女性の声と言葉から私の思考が始まりました。
『ああ野麦峠』で知られる製紙工場の女工が、どんなに過酷な仕事で
も家の仕事よりまし、と思っていたという以前読んだ資料を思い出しま
した。どこか似てる気がしました。
食事もままならない、物質的に貧しい時代、国家の事情に、家庭の事
情で生き延びるために余儀なく抑圧された生活に身を置かなければ
ならない人達がいた事を思いました。軍人、女工、娼婦。みなどこかで
繋がっている感じがしました。
生き延びるために必要な物…食料と雨風を凌ぐための家。繭の台詞
「おなかがすいていて〜」「いえ」等から繭は生きようとしている、生き
たいと本能で感じているように思えました。
でも、ただ生きたいのではない。やらなきゃいけない事がある。
繭は自分の愛する男を母親に奪われる(殺される?)という事件をき
っかけに自分というアイディンティティを失ったに違いない。'自分とは
何者なのか?'をはっきりさせなければ生きる事もできないし、死ぬこ
ともできないと死のふちから蘇ってきたんじゃないだろうか。
そのためには母への憎悪、恨み、血縁と家系の疑問=自分の出生へ
の疑問?等の気持ちに決着をつけなければならないと。誰が父親か
わからない子(いない?)が生まれ、その子が母になり、その母から誰
が父親かわからない子(いない)がまた生まれるという悪循環、母子
(娘)でひとりの男を奪い合うという悲劇を繰り返さないためにも娼家を
支配しているものも壊さないといけないと立ち上がった。全て終わらせ
てやる〜!!と母まで殺したのに…すでに自分の血を引くものをはら
んでいた…終わりじゃなかった…。そう易々とは糸を切れない、苦しい
現実から逃れられない。『糸地獄』にハマッテしまっている自分に愕然
として言葉を失ったんじゃないだろうか。
繭の自分探しは、これが始まりまだまだ続く…そんな風に終わった感
じがします。
時代背景や境遇が違っても、どこか現代に生きる私たちにとっても無
縁ではない。私たちも緩やかな糸地獄の中にいると思いました。蜘蛛
の巣の背景にうっすらと現代社会の風景が重なっているポスターから
も感じます。
繭の登場、インパクトありました。志村さんの演技と照明の加減で本
当にずぶ濡れみたいで凄かったです。
衣装のコントラストや照明が黒一色の舞台背景によりいっそう際立っ
ていたしそれらが何かを象徴しているような感じがします。戸の桟を思
わせる照明からは繭がいえ(娼家)の外にいる=たどりつけないイメー
ジを感じたし繭が持つ糸もおもしろいと思いました。ラストの方のレー
ザ光線による無数の糸で観客席も糸地獄でした(笑)。音楽と照明の
使い方がカッコよかったです。シンプルさから生まれる美を毎回感じる
し、ステキだなと思います。
テラの作品を観る時は、表面的には見えないものを見ようとする想像
力、他者の闇と向き合う力、深く思考する力、を引き出される感じがし
ます。どれも私を含め現代人に欠けている力だと思います。
次回も成長と実験を重ねてより進化したテラに出会える事を楽しみに
しています。
2009年8月11日
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今までに見たテラの作品では、物語の部分と、集団舞踏にも似た女優
たちの動きとは、はっきりちがった空間を作り出していたが、ギリシャ
悲劇に比べると岸田さんの物語は、より情をもった具体的な人間の物
語なので、新展開のように感じた。結果として、テラ特有の女優たちの
集団的動きは、物語の中にうまくとけ込んでいた。
ただ、繭の物語のせりふ、黒衣の郡読様部分、女優(12月の女郎た
ち)場面、いずれも強いので、一本調子の感じがした。たとえば物語の
せりふを普通の会話にすることでシーンの変化をつけるなどすれば、
見やすいのにと思った。
台詞の中では、(満州事変以降のことだろうが)戦争によって、むしろ
景気がよくなり、大学生の求人も引く手あまたになり、庶民はむしろ喜
んで戦争への道を歓迎したと受け取れるような一連の史実の列挙
は、意外でもあり、触発された。前に見た作品でのネットの書き込み
の列挙でも感じたことだが、具体的な事実を大量に列挙していくことの
力を教えてくれるのは、テラの作品が随一だと思う。この部分は、原作
に付け加えられた部分だと思うが、林さんの現代日本の現状への危
機認識がはっきりと感じられた。今の不況下の日本で、かつての「満
州」のようなものをやられたら、庶民は歓迎し、誰も抵抗できないなと
感じ、恐くなった。
前半は今ひとつと感じたところもあったが、後半にかけてテラの深み
からの全力芝居の醍醐味を堪能することができてよかった。
原作の上演という観点から見ると、原作が書かれた25年くらい前の時
点から、人も世の中も大きく変わっており、岸田さんの作品の中にあ
る、共同体への帰属、系図、血のつながりへの感情、母への引き裂
かれた念い、女であるということ、国家の悪と会社(女郎屋)の悪の一
体感覚などは、今のわれわれにはすっぽりとはまれなくなっている。テ
ラはこの作品で、原作の世界をまるごと追体験させるという方向でな
く、むしろ今日的に構成しなおすという道をとったと感じる。結果とし
て、作品の中核にあった母への念いが薄まった印象がある。女郎も
女工哀史の女たちと二重写しに見えるよりは、現代的なストレス下に
ある女性労働者たちのように感じられた。母である事、女であること、
血縁地縁のしがらみをひきずった女から、孤立させられた私人として
の女性という、テラが表現してきた今の若い女性たちとのつなげられ
方はまだうまくいっていないように思える。
そういうことも関係があるのだろう。脚本を読んでもそれほど強調され
て感じられないのだが、
「もう一つの王国は死に急いでいるが、俺の糸屋は肉の匂いで満ちあ
ふれている」
という縄の台詞が強く耳に残った。
血縁地縁とセットになっていた国家主義の支配は、経済成長下に成
長した消費社会と企業の支配にとってかわられ、企業は、孤立した
個々人の欲望を吸って肥え太っていった。糸の種類が変わったのだ。
上の縄の言葉は彼らの勝利宣言のように聞こえる。大東亜戦争で滅
亡に向かう大日本帝国の史実の列挙は取って代わられる国家の没落
と二重写しに聞こえてくる。
そして、母殺しをめざしどこまでも進む繭は、このラスボス糸屋の
「戸籍のない女たちを集め、家という名の国をつくって糸を売らせ、色
を売らせた。生き延びるため、戸籍という道しるべを倒し、俺という生
き物がめぐり続けるために。俺は糸屋の主人、縄。四方八方に糸を張
り巡らし、あやつり、至福千年王国一夜だ。」
というむき出し資本主義を単身刺しに行く女テロリストのように見え
る。ラストの苦しみ場は、おおぜいの母(女)たちの苦しみを背負って
それに応援されて、糸にしばりつけられながらも、それを切り縄を倒そ
うとする場面と見える。
それなのに、ラストは繭が力つきて倒れてしまったように私には見え
て、処理に疑問が残った。逆光の中になぜ立っている繭がいないの
か。もと戯曲ではここは、寺山修司の作品によくでてくるストップ、中断
になっているように思う。その瞬間を永遠の物として切り取ることによ
って保存する、と言うものである。
結論として、私は、この芝居を、地縁血縁の古い国家の支配から解放
されたが、代わりに消費社会の支配の中にまきこまれたわれわれを
救うべく、ついにその真敵をはさみで刺さんといどんでいく女主人公の
物語、 というふうに読んだことになるようです。
一回みて、原作も初めて読んでみただけなので、誤解と偏見、勘違い
だらけでしょうが、お許しください。正直な感想なので。
追記 繭を観てて、最近読んだ話題小説村上春樹の「1Q84」の青豆さ
んを連想しました。向こうにも糸も繭(さなぎ)もでてきますし。テラは
1Q84と並走しているんだといったら、おこられてしまいますかね。
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