|
[見えない檻の中の少女たち]
[――現在(いま)を意識化する演劇]
村岡秀弥
|
|
「ノラ 〜光のかけら〜」
2009/12/10-13,d-倉庫
テラ・アーツ・ファクトリー (TAF) は自らの"劇作"の方法について、公
演の度にプログラムリーフレット等で少しずつ説明をしている。今回は
"ブリコラージュ"という、レヴィ-ストロースの概念を援用して説明して
いる――。
ブリコラージュ : その場にある物を集めて自分で作る、物を自分で修
繕するという意味。理論や設計図に基づいて物を作る「エンジニアリン
グ」と対照をなす方法。身近にある物を集め、それらを部品として何が
作れるか試行錯誤しながら全体を作ること。フランスの人類学者クロ
ード・レヴィ-ストロースは、近代以降の「エンジニアリング」の方法を
「栽培された思考」と位置づけ、ブリコラージュを人類が古くから持って
いた叡智、「野生の思考」と呼び、近代社会にも適用される普遍的な
知のあり方と考えた。
ブリコラージュというなら、OM-2 だって、劇団解体社だって、正にブリ
コラージュだ。抽象化すれば同類と見なされ得る手法に依拠しつつ
も、それぞれに持ち味を発揮しているというわけなのだ。
これら他のカンパニーと比較しての、TAF の特徴を挙げるなら――。
1) TAF の方が一作品としての緊密な統一感を感じさせる上演を目指
していること。
2) "古典を通して現代を照射する"(何とも陳腐な言い回しだが、ご容
赦願いたい) という志向を持っていること。(イプセンは"半古典"とでも
呼ぶ方が適切かもしれないが。)
3) さらにもう一つは、近年の OM-2 や解体社がメンバー個人のパフ
ォーマンス (身体表現行為) に依存する傾向を強めているのに対し、
TAF は集団的な演技をあくまでも舞台表現の中心に据えている点だ。
それについては、OM-2、解体社が男女混淆の構成であるのに対し、
TAF は基本的に20代〜30歳前後の女性たちを中心としたカンパニー
であるという条件が影響している面もあろう。――それはしかし、単な
る客観的条件に過ぎないとも言える。補足しておくと、今回は男性のメ
ンバーが 1人出演していて、大いに効果を上げていた。
4) "集団創作"という要素も強調しておかなければならない重要な特
徴だ。少し説明すると――。
テクストの創作や採集、シーンやテクストの取捨選択、所作 (振り) の
考案・創作、等々といった作業が、普段のないしは公演のための稽古
と並行して、共同作業として進められる。――役者たち自身の試行・
推敲の繰り返しにより"創作"が進められるのだと言った方が解り易い
かもしれない。
念のため付け加えておくと、今日の TAF があるのには、元々は素人
であった若い"彼女たち"をここまで引っぱって来た指導力と、演出家・
創作家としての優れたセンスを持った林英樹の存在があったからこそ
であるのは言うまでもない。
さて、そのような方法を駆使して創られ、上演された今回の作品「ノラ
〜光のかけら〜」であるが、改作であるということもあって (「人形の
家」をベースにした作品として――というのは、原作テクストの一部を
利用したという程度の意味であるが)、完成度の高さを実感させる緊密
な舞台であった。内容的には、決して単純にも明解にもなり得ない複
雑なもの――現実の人間や社会の事情に即した――があるのだが、
すでに十分に整理さ、シンプルな印象を与えるほどに練り上げられて
いる。
第 1 景――4 人の少女 (もしくは成人女性)――黒のワンピースまた
はツーピースを着ている――は光の鳥籠のような領域の中に佇み、
ディスプレイされている。それらはファッション雑誌のページから飛び
出してきたマネキンであり、現実の出演者である (もしくは、そのように
想定された抽象的な人格としての) 彼女たちのある種の想念の投影さ
れた対象物としての存在なのだ。
舞台上にはこのようなオブジェが (主として) 展開される。それらは彼
女ら演者一人一人の生身の身体であると同時に、劇中の何らかの"
役"の人物であるというより、筆者のボキャブラリーの乏しいのが恐縮
だが、オブジェとでも言うよりほかないような存在だ。もちろん、"人形
≒オブジェ"という連想もあろう。
そのようなオブジェとしての物象 (表現の客体) を演じることを通じて、
現実の表現主体である彼女らは、自身の身体性 (感覚とその再認識・
再評価) を通じ、自身の精神的な存在様式 (現実社会との関わり方を
含む) を確認・再確認していくのだった。
幻影のノラ (ノラの幻影) が現れる。それは 3 人の役者により演じられ
る。1 人は赤いドレスの女、1 人は白いウェデングドレスの女、もう 1
人は青いドレス (今の普段着に近い) の女だ。(青の女だけが後のシ
ーンで科白 (台詞) を語る。)
第 2 景――内面化された人間関係を人形のような"彼女たち"が演じ
る。
1人 対 4人。1人は白いウェデングドレスの女、4人は……第 1 景の黒
い衣裳の女たち。――実は初めは灰色の衣裳の女たち (第 1 景の終
りの方で、顔の前に新聞紙を拡げて登場した 4人の女たち) だったの
が、途中で黒い衣裳の女たちに入れ替わるのあった (この辺りの照明
はとても暗い)。そして、いじめのような暴力が執拗に繰り返される様
が暗示される。
1人と 4人のいずれか一群が人間であり、一群が人形であると仮定し
た場合、その解答 (いずれか? という設問に対する) は容易に入れ
替わることができる。舞台上における暗喩は、二重にも、また三重の
それにもなり得るからだ。そういう意味でこの作品は、観客の生理的
な感覚に訴えると同時に、すぐれて知的な感受性・読解力に解釈を委
ねてもいるのだと言えよう。
そして、身近な者たちと背景の者たちが静かに入れ替わる。――身近
な者たちが背景に退き、背景であった者 (物) たちが前景へと接近し
て来る不気味さ。それは何を意味するのか? (もちろん"新聞"も暗
喩であり、物ではない暗喩もまた、作品の中に多数ちりばめられてい
るのだった。)
第 3 景から終景 (第 5 景) にかけての詳しい記述は省くが、今なお続
く社会 (男性的支配的社会) からの抑圧を批判しつつ、その一方、昔
とは全く比較にならないほどに女性が解放された現代の日本にあっ
て、若い女性たち自身が今日も築きつつあるところのある種の価値観
――簡単に言えば、美しくかわいく (かつ、いつまでも若く) ありたいと
いう願望と一体のそれ――にがんじがらめになっている状況が、TAF
独特の手法により鮮鋭かつ鮮烈に描き出される。
「ノラ 〜光のかけら〜」は、身体の強度 (表現性ないしは表現力)、言
語の強度を確実なものとする一方、視覚的 (映像的と言った方がよい
かもしれない) にも聴覚的にも過不足のない構成を伴った作品として、
再始動後の TAF の到達点を示すとともに、現代の日本演劇界に対し
ての痛烈な"頂門の一針"でもあると言えよう。
注 : 普段の会話では皆、単に「テラ」と呼んでいるが、ここでは TAF
と略した。
11日と 13日に観覧。
|
|
|
|
|
ブリコラージュは、生命の活動に似ている。生命と無生物の間には、
ウィルスが、位置する。ウィルスを生命と捉えるか、物と捉えるかは、
研究者の間でも、議論に分かれるところであり、自分如きが、論じられ
るほど、単純な問題ではないが、案外、ウィルスは、その単純さ故に、
最も、本質的な問題を提起してもいる。つまり、生命をどう定義する
か、言いかえれば、生命とは、何か、生きるとは、どういうことかという
二つの問題だ。
福岡伸一博士からの受け売りになってしまうが、生命は、丁度、海辺
に作る砂の城のようなものである。放っておけば、形が崩れ、いつの
間にか、跡形もなく消えてしまう。城を保つ為には、絶え間のない補修
が、必要である。そして、その補修材は、回りから、別の砂を持って来
て、補修するのであるから、城の形は、変わらなくても、中身は、すっ
かり別の物になった、と考えて構わない。ただ、そこに一貫性が、見え
るように思われるのは、DNAの螺旋構造によって、生命維持に必要な
情報が、RNAに転写され、基本的には、同じ形の細胞内物質を作り、
生命の維持を図っているからである。
一方、生命は、もう一つ、大きな特徴を持っている。言うまでもなく、子
孫を残すことである。ウィルスは、それ自体では、生命の根本的条件
の一つである、代謝を行わないが、別の動物などに入り込むことによ
って、分裂を繰り返して増殖する。だが、ここでは、こちらの問題は、
置いておく。ノラにとって、取り敢えず緊急の問題ではないからだ。
では実際、我々は、どのような遣り方で、生命を維持してゆくのか。予
め、機械の全体設計図のような物があって、その設計図に従って、在
る部品が、作られ、在るべき場所に収まるのか。それとも、そのような
意味での設計図は、存在せず、丁度、パズルのピースを一つずつ嵌
め込んで完成させてゆくように、各々のピースの形が、ぴったり当て嵌
まる場所を探して、そこに、入り込むのか。生命は、恐らく全体像を予
め知った上で、予定調和的に、あるピースをある場所に嵌め込むので
はない。ただ、そのピースが、ぴったり合う場所を探して、その周りと
合体してゆくのである。但し、このような流れの中にも、時々は、ミス
が、起こる。突然変異と呼ばれる現象である。そして、我々の進化は、
この突然変異が、新たな状況下で適応性を持った場合に、遺伝子に
組み込まれた、と考えられている。
ノラに与えられた環境は、全体設計が、恰も、為されているかのような
世界であり、生命の論理とは、異なる。もっと、はっきり言ってしまえ
ば、生命の維持、継承には、関係の無い価値観である。だが、ヘルメ
ルや世間は、そのように考えてはいない。世間から、見れば、ノラは、
突然変異体である。だから、彼女からは、彼らが、理解し得ないし、彼
らからは、彼女を理解できないのだ。にも拘わらず、ノラは、新たな地
平に進むことが、できる。それは、彼女の論理こそが、生命の維持・
再生に直結するからだ。『ノラー光のかけらー』の舞台上で、ノラたち
を取り囲んだ、既存の価値観が、ノラたちの手によって、葬り去られて
ゆく場面は圧巻である。このような形で、百数十年の時を超え、見事
に、イプセンを現代化した、演出家の才能に敬意を表する。
|
|
|
|
|
「ノラー光のかけらー」を興味深く拝見しました。ひとつの太いストーリ
ーに頼らず、コラージュ的に構成された作品なので、まさに乱反射す
るような、さまざまな感想があったのではないかと思います。
私は、その率直さ・直截さに、好感をもちました。言い換えればそれ
は、演じ手が、内なる自分との格闘・模索の末に獲得した自由さなの
かもしれません。自分が不自由であることを自覚して、それを表現に
つなげた時、少しずつでも自由になれるという意味で。
好きなシーンがいくつがあり、同時に、これはちょっと…というのも。た
とえば、四角く当てられる照明。率直に言って、割に最近のダンスで2
回ほどこういうのを見ていて、ああ、あれかーと。ところが、後半の女
性誌を、四角い陣地を残して敷き詰めていくところなどで、待てよ、単
なる照明の遊びだけではなくて、かなりこれにこだわっているなと気付
きました。この、人一人が立てるだけの空間に閉じ込められていること
と、スポットライトが当てられているということの二重性。説明がつくと
いう範囲を超えた多層的なニュアンスがありました。ほかでも、そうい
うものが受け取れるところが刺激的で面白い。
ところでこの作品では、原作も原作だけに、女性であること=〈女性
性〉が大きく取り上げられていますよね。私は今50代ですが、この女性
性というのは終わることのないテーマです。思春期から20代の頃は、
苦しさに直面していたけど、この年代になっても卒業しないことに、時
に愕然とします。
少し話がそれますが、私は、ほかでもお芝居やダンスのレビューを書
くことがあります。そんなとき、作り手が一生懸命やっていると感じた
ら、何とかいいところを探し出したいと考えます。でもそれと同時に、冷
静な透徹した目で、時には厳しい言葉も用いて、作品を評価すること
(場合によればしないこと)が、作り手に対しても自分にとっても必要不
可欠だと思うのです。それが〈批評〉ということだと。
でも、女性である私は、なかなかそういう言葉を持てません。なぜな
ら、生活に、生き方に〈批評〉というものがないから。受け入れられるも
のは受け入れ、マズいと思えば避ける、つまりあるのは、〈受容〉と〈忌
避〉だけだからではないかと感じます。ノラの時代から、何がどれだけ
変わったのか。今また若い女性に、専業主婦願望が高まっているとい
われ、なぜ医者志望かと問われた女子高生は「後ろ指を指されずに
子供を預けられるから」と答える。TVではギャルタレが「自分から好き
というのはダメ、相手に言わせなきゃ」と話している。おいおい、まだそ
んなことやってるの? と思わず背中をパーンと叩きたくなります。で
も、私たちもそこから脱してはいない。男のようにがむしゃらに働くと
か、いたずらに自己主張するとか、そんなこととは別に、自分の足の
上に重心があって、まっすぐに地面に立ちつつ、世間や社会や世界に
向かい合うこと。それは、死ぬまでの課題なんだなと思います。
若い女性達が演じたこの作品が、そう言う意味で、一歩でも二歩でも
世界にきちんと向き合って、ある意味で異議を唱えたものであれば、
観客の私は嬉しいです。そして、そういった感じを私は受けました。
最後に、受付や場内案内など表方のスタッフワークがとてもよくて感心
しました! 皆さん、にこやかで落ち着いていたし、随所に人が配置さ
れていたのも、観客には有難い。公演では、そういうところは目立たな
いし、軽視されがちなのですが、お客が劇場に入ってまず接するのは
表方ですよね。そこでつまずいたら、作品世界には入り込めません。
これからも同様にと望みます。
|
|
|
|
|
「人形の家」の現代的上演である。
初めに黒衣の女性たちのうめき、うごめきが存在する。それは苦しみ
である。父親や権力によって人間としてではなく、人形として扱われる
ノラや現代のノラたちの苦しみを表現しているのかと見ると、この作品
ではどうやらそれだけではない。うめきも動きも身体的、感覚的であ
り、ノラが苦しんだ、一個の人間として扱われない苦しみよりもっと原
初的だ。その証拠は、彼女たちが、現代には、ファッションモデルのよ
うな、男たちを幻惑する資本主義、消費文化の象徴になって後半には
現れること。現代のノラは花嫁と四人の現代女性に分裂して、いる。
日常のさまざまに沈潜する女たち、恋への夢にふりまわされる女、ま
た男に愛される自分というイメージの中で自己愛として生きる女。
それら一つ一つは、戯画化された女性のイメージだが、それが一同に
会することで、現代の女性のあり方について、ある種の総合、全体化
を見る者の心の内に引き起こす。それぞれはなじみのイメージが、一
緒になったときに見える何か。意外だった。
「人形の家」からの引用シーンはまるで、古典劇のようだ。めいめい
は役柄存在を演じて、近代的な女性の人間としての自立という物語を
する。
権力の悪ボスたる男は、定められたコースをとって、女に捨てられ、退
場していく。
女性たちのうめきはどうやら、父親や国家権力からの人間としての女
性の解放に肉体化するようだが、それはおとなしくは終わらない。
中盤から時間をかけて次第に舞台一面にひきつめられていく膨大な
数の雑誌は、現代におけるメディアによるコトバや思想だけではなく、
無意識への、意志とか好みとか感情とか肉体の習慣性そのものまで
の支配を表しているだろうが、それに対しては、一人の人間としての
自覚による断固とした主張だけではかなわない。それはこの舞台のク
ライマックスのようにエネルギーをもってひたすらまき散らし、舞い上
がらせ、吹き飛ばされる以外にはないということだろうか。
かつてのノラは、たしかにその後、厳しい生活が待っていたかもしれな
いが、それでも帰る実家もあり、人間として再出発しえた。だが、現代
のノラはどうだろうか。一筋の光はどこへむかって、さしているのだろう
か。
|
|
|
|
智春(Cheeky*Park/チィキィ*パークゥ)
|
|
私の感想を一言で言うと、「この作品は、女である」ということ。
女性を感じさせるのではなく、まさしく、「女」そのものであった。
こんなに「女」を強く感じさせる舞台にはなかなか出会えないであろう。
自分が鍵をかけて、小箱にしまい込んでいたはずの
女というドロドロとした触れたくないあのどうしようもない部分
隠しておきたい内側の私を思いっきり見られてしまったような、
そんな感覚にとらわれた。
自分の中にある隠しがちな感情や感覚、しかも、決してだれにも
見られたくないもの。
それが、ここにはあきらかにあった。
しかし、なぜ、こんなにも「女」なのだろう?
演出をされた、林さんは、男である。
私には、男の目から女を描いているようには決して思えなかった。
作品の創り方について、出演者に話を聞いてみてすこしだけ理解し
た。
匿名のチャット(でしたか?)に、自分たちの思っていることを綴りそれ
を台本に起こしているということ。
それらを表現という形に変えて板にのせていけば、女性的な舞台を創
ることができるだろうが・・・
それだけだは、決して「女」にはならない。
大抵の男性の演出家の描く舞台には、
その演出家の理想の女性の姿がみえかくれする。
あるいは、自分の母の姿か・・・
しかし、今回のこの舞台に関しては、よく感じるこの男性演出家
独特の匂いがしない。
「女」という生物が、どういう生き物なのか。
女である私たちよりも、
女を嘗め回し、女の持つすべての扉をこじ開け
逃げ惑う「女」という生き物の生態を冷静に観察し、
執拗なまでに解体し尽くし
ただ、ただ、呆然と立ちつくす、
そこにある「女」を、
あらたにかたちづくったのではないだろうか。
さまざまな、「女」が舞台上に登場したが、
最後には、全員がたった一人の「ノラ」にみえた。
行き着くところは、私も女。
女としてはるか昔から繋がってきた女としての遺伝子。
私の知らない女としての私に出会えたこの作品は、
女としての私のはるかかなたと出会う小旅行のようなものだったのか
もしれない。
|
|
|
|